「調和の限界」

水の入ったバケツにサラダボールを浮かべ、それを手で押してやると、サラダボールを押した力に比例してバケツの内側の水位は上昇する。
サラダボールがそれまで水が占有していた場所を新たに占有し始めた結果、力学的にその量で有れば人間の力に及ばなかった水が押しやられ、そして水は全体の水位を上昇させてサラダボール分の他の空間を確保せざるを得ない事になったのである。

このように宇宙空間はともかく、地球上では必ず何らかの原子や分子、それらで構成された分子ユニット、つまり物質や生物が隙間無く存在し、自身存在の証はその空間を占有している事によって成り立っている。

簡単に言うと空いた席は無いので有って、何かが欠ければ必ず他の何かがその欠けた空間を占有する仕組みなのである。

そして物質や原子のこうした有り様は人間の精神構造、感覚、社会と個人の関係に措いてもまったく同じ構造を示していて、しかも精神構造や感覚などと言った空間的制限の無い世界ではこれが複雑に絡み合い、物質世界の占有より激しい占有争いとなっている。

以前、ケインズの経済論は人間の劣化を考えていないと言う話を、アイスクリームを差し入れる社長の例で記事にした記憶が有るが、社員の事を考える優しい社長が善意で毎日アイスクリームを差し入れると、やがてその事が標準化し、いつか風邪で寝込んだ社長がアイスクリームを差し入れることができない日が訪れた時、社員は元々は善意だった事を知っていたものの、それを忘れて「今日はアイスクリームが来ない、おかしいじゃないか」と言い出すようになる。

つまり社長の善意はやがて社員たちの権利に近い状態にまでへこまされ、社員たちはアイスクリームを差し入れてもらう権利にまで自身を拡大して行くのだが、当然この反対も存在する。

会社の為、公共の福祉の為、世の中の為と言う善意は、それを被る対象が漠然化している為、初めから結果は見えない。
しかしその善意を施す個人の労力は現実の自分が被る労力提供であり、公共の福祉や公共に対する善意とは、政治が執行された政策に対する自身との調和の一端である。

例えば看護士を例に取るなら、勤務時間は決まっているはずで、当然昼食時間や昼の休憩なども規定されているだろう。
しかしその休憩時間に救急患者が搬送された時、看護士の眼前には人の命と言う自身の権利とは比すべくもない現実が現れる。

人として、看護の精神として自身の権利よりも患者の事を考える看護士は、その善良さゆえにやがて休憩時間も昼食時間も無い勤務体系が標準化し、急患でもないケースでも「彼女はどうした」と言う事になっていく。

これが元々看護士の足りない病院なら、看護士の善意、看護士が持つ社会システムとの調和の精神ゆえ、本来社会や制度がこれを整備しなければならない部分までも看護士がこれを負担し、しかも恩恵を被る対象が漠然化している為、看護士の善意は社会システムの中に埋没して標準化する。

文句が出ない間は、現行の運用が容認されて行くのであり、これが個人の善意に侵食する社会の甘え、怠惰と言うものであり、小さくは2人以上の集まりから大きくは国家まで、それが作り出す制度や慣習の在り様は全て同じ構造となっている。

個人の人間性や善意は公共の怠惰を呼ぶのであり、公共の怠惰とは政治や行政の怠惰の事である。

鳥取県立鳥取養護学校の非常勤看護士6名が2015年5月22日の授業終了後、揃って辞表を提出した出来事は記憶に新しいが、これが調整、政治とその執行である政策と、個人が調整に対して示せる調和の限界点の一つの形であり、こうした事が一つでも発生してくると言う事は、その行政区自体がもう限界になっていると言う事である。

元々看護士等が持つ人命救済、疾患者擁護の精神はもっとも強い善意、もっとも強い調和の精神を持っているが、これが「もうだめです」と悲鳴を上げたと言う事は、その行政区が最後の砦も失ったと同義であり、養護を受ける側はそこに権利を意識し、だが実は看護士の数は足りず、現存の看護士の社会的責任感、仕事に関する責任感によってこれがカバーされていた。

つまり本来は行政が対処しなければならない看護士不足を、現存の看護士たちが道義的精神でカバーし、これで何とかなっている間は行政は黙っている。
なぜなら政治や行政は調整だからで、何か声が上がらない限り動かないのである。

この意味では行政は初めから怠惰にしか方向性を持っていないのであり、ここに看護士たちの責任感や人間性は吸い込まれ形をなくし、一方養護措置が遅れれば生徒の親たちから「何をやっている」と責められる訳である。

ここに調整に対する調和の精神は瓦解するのであり、形は違えど社会に生きる我々は同じような命題の狭間で葛藤している。

善の善なるものは形を持たず、光を持たない。

普通の事が普通に動いていくだけだからだが、その普通が普通に動いていく影には称賛される事もなく、時には人から悪く思われたとしても、我慢して笑っている者がいるからこそ普通が普通に動くのである。

この社会は政治や経済だけで動いているのではない、一人一人の小さな善意が社会を普通に動かしているのであり、経済もまた大企業と政治だけで何とかなっているのではなく、何も言わず働き、苦しい中から税金を払っているサラリーマンやパート主婦達がいて、彼らが生活する事で経済が成り立っている。

これをして調和の極みと言わずして、他の何が極みと成り得ようか・・・。
日本は今急激に調整や調和の方向を高齢化社会に向かわせている。
そしてこの中では形無き多くの善意が動いて普通が何とか維持されている。

善意を施した者はそれを忘れないが、施されたものはそれをすぐに忘れ、善意の継続はやがて対象者に権利意識を発生させる。
そして善意が権利意識に変換され始めた瞬間こそが調和の限界点であり、既存社会システムが崩壊し、新たなる調整を必要としていると言う事かも知れない。

我々が権利と考えているものの要素は決して単体ではない。

知る由も無い人の善意もまた、そうした要素の一つかも知れない事を思い、自身の権利の前では謙虚である事が求められている。

[本文は2015年6月11日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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