「柳潁の一則の雲」

2つの台風が接近した場合、その動きに関して一定の法則的運動形式が見られる事を提唱した「藤原咲平」〈ふじわら・さきへい1884~1950〉

1926年には「寺田寅彦」の後任として東京大学地震研究所を引き継いだ、近代日本気象学の先駆者とも言える氏の著書「日本気象学史」には、「楠木正成」〈くすのき・まさしげ、鎌倉時代末期の地方豪族〉が使っていたと言う「雲の形を編纂した図解」が紹介されている。

「通気図解」と称されるその図集は、雲の形に拠って直近、若しくは1週間後くらいの天候を予測するもので、軍略に措ける気候予測の重要性は古来から現代まで、何等色あせるものではない重要案件であり、「楠木正成」が戦に強かった1つの要因がここに在るとも言われている。

同様の気象予測法は「今川義元」の軍師「大原雪斎」も記しているし、「武田信玄」の「甲陽軍鑑」にも少し記述が見られ、「真田幸村」なども、こうした気象予測を研究していたと言われている。

「通気図解」は20種の変わった形の雲と、それが変異した形40種からなる雲の形から、先の天候を予測するものであり、「藤原咲平」はこの図解を見て、「とても珍しい書物で、なるほど経験上確かに役立つものも在る・・・」と評している。

この「通気図解」の中で、「楠木正成」が一番恐れていた雲の形が「柳潁の一則」〈潁はヒ・水・項で、中国河南省から安徽省へと続く川の名〉で、〈りゅうえい・いっそく〉と発音するのではないかと推測され、その形状は朝日の周囲を蛇のように黒、若しくは赤黒い雲が囲んでいるもので、魚が丸い煎餅に集まってきているような形でも成立する。

蛇のように連続していなくても、全体として朝日が雲に囲まれた形、若しくは少し太陽に雲がかかっている状態をも指しているが、「楠木正成」はこの雲を経験上最も恐れたらしく、「柳潁の一則は恐ろしい、よくよく用心せねばならぬ」と記している。

朝日に「柳潁の一則」の雲が現れた時、一体どうなるのかと言うと、「その日の午後2時から4時頃、絹を引き裂くような大雷、落雷に見舞われるか、山を崩すような大地震が来る」

通気図解に楠木正成はそう記している。

ただ、この通気図解の記述はとてもマイナーな文献で在り、そもそもが「藤原咲平」の「日本気象学史」以外に記述が無く、「日本気象学史」と言う著書も、古本屋を探してもまず出て来ない特殊な著書と言え、為に民間の宏観地震予知でも、知る者が少なく、その事例が残される事もなかった。

しかし1923年に発生した「関東大地震」では、「文部省震災予防評議会」が発行した「大日本地震資料」の中に、2件だけこの「柳潁の一則の雲」を早朝に見たとする記述が残されている。

勿論報告者は「柳潁の一則」の雲とは知らないのだが、朝日を蛇のように囲む黒い雲が在り、とても不思議だったとしている為、これは柳潁の一則の雲だろうと推測できる。

北条連合軍ですら、打ち破った戦の天才「楠木正成」をして「恐ろしい」と言わしめた「柳潁の一則の雲」・・・。

「藤原咲平」の「なるほど経験上役に立つものも在る」と言う微妙な評価に鑑みるなら、これから早起きして、まずは朝日を見てから一日を始めるのも、立派な防災かも知れない。

2023年2月7日、新潟県糸魚川の海岸で250mに渡って幾重にも折り重なり、大量のイワシが死んで打ちあがった。

気象庁、大学の研究機関は能登半島で連続する地震を、地殻内部の水の層の影響と推測を立てたが、能登半島だけが特殊な事情と言う理論は無理があり、そうでなければ過去に同様のケースが各地で発生していなければ整合性は取れない。

能登半島で連続している地震と同様のケースは大地溝帯〈フォッサマグナ〉やプレート付近の火山付近で発生する地震と良く似ている。

また地震の連動性、関連性として能登半島で現在発生している地震と富山県西部で発生する微震、震源に近い地域よりも中越付近で、かなり連動性が在るような地震波の流れが感じられる。

大地溝帯から延びる亀裂断層、その枝のようなものが中越沖から能登半島の先端、珠洲市に延びている可能性が、どうしても否定できない。

2007年の能登半島地震の折は、地震発生24日前と、13日前に大量のハリセンボンが海岸に打ち上げられた。

古来より地震の時は「イワシが・・・」はよく出て来る話でもある。

新潟県だけではなく、富山県、能登半島の方々は、今後1カ月ほど、注意してお過ごしください。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。