「平等の破壊」

500万円を持っている人が6人、200万円を持っている人が2人、10万円しか無い人が1人、1万円札一枚しか持っていない人が1人の、合計10人が会派を作ろうとした時、会費の設定額で500万の人は5万円でも構わないと主張し、200万の人は2万円でも良いと言うが、これでも10万円しか持っていない人の資産消失額は会費だけで20%を超え、1万円しか持っていない人はそれにすら達する事ができない。

この場合会費が5万円なら、現実的には10万円と1万円の人は会派に参加できないが、絶対参加しなければならない会派、すなわち国家の場合、予め会費を設ける時は1万円の人を基準に会費を設けなければならなくなる。

つまり1万円の人が払える会費と言う事になるが、そこで決まった金額が1000だったとしたら、10人が1000円を出しても合計で1万円にしかならず、これではみんなで吉野家へ行って終わりになる。

それで考えられたのが所有金額の消失割合に拠る均等性で、全員が資産の中から同じ割合で金額を拠出すようにすればどうだと言うことになって行くが、基本的にこの考え方は個人の努力すらも予め皆同じで有ると言うところから出発していて、努力して500万円持っている人も、ギャンブルばかりで何の努力もしていない人も、その部分はさて置き、と言う話である。

このように我々が日々概念する平等と言うものの正体は、集合で言うなら幾つもの円が交じり合う僅かな重複箇所を探すところから始まり、つまりは皆が平等で有る条件を探す事なのであり、その概念は常に方向性や限定された条件を持っている。

努力を平等のテーマに掲げるなら、努力して500万円を持った人の負担は重くなり、ギャンブルばかりで遊んでいて1万円しかない人は優遇されている事になるが、現実の資産と会派の設定が絶対的なものなら、この範囲では資産割拠出は平等となる。

そしてこの平等を破壊するのはいたって簡単な事で、事情に応じた例外を作ればいとも容易く崩壊し混乱に向かう。

会派結成の会費で言えば、資産割拠出1%なら500万円の人が5万円、1万円の人は100円で有るなら、その差は500倍であり、ここで宴席に5万円の人には鯛のおかしらが付き、100円の人にはアジの干物だった場合、アジの干物の人はその一瞬から不平等を感じる事になる。

またそうではなくても例えば100円しか拠出しない人が年長で、5万円拠出した人が若い場合、座る席順だけでも不平等と感じる事になるかも知れない。

だがここでの平等の本質は、皆が決まった割合で資産からお金を出すと言う事のみであり、その他に措ける平等は予め保障されてはいなかった。
これを拡大解釈したり、感情を交えると集合して重なり合った円の重複部分は一瞬にして吹っ飛んでしまう。

5万円拠出した人は自分は5万円も出しているのだから、少しは恩恵が有るのは当たり前だと考え、100円しか出していない人が下座に座っているのは、拠出金額の格差かと考えた時、これに対して特例を設けた瞬間から各個人の事情や感情、人間関係が噴出し、円の重なりはなくなってしまうのである。

つまり平等の概念は目的の為に存在する一つの手続きと言え、例外を設けない事に拠って担保され、ここに個人が例外を作らない努力が有って継続されるものなのであり、一方権利は他の目的の為の平等を包括したものである。

現存の会派とは別の会派の平等をも含んだものが権利の意識であり、そこに感情や他の不満を乗積させると、権利の暴走が始まり、重なり合っていた円の重複部分をその権利の主張が破壊して行く。

僻(ひがみ)や感情のしこり、或いは傲慢や虚栄、名誉欲に権力欲、平等の敵は不平等ではなく、こうしたところに存在し、人はまたこうした事から中々逃れられない。
ゆえ、平等と言うものは幻想なのである。

同じように政治の世界に措ける政策も、それを担保するものは例外を如何に少なくするかと言う部分に拠って決定される。

民主党政権時代、あっちの事情にもこっちの事情にも振り回された結果、最後は全ての政策が虚しくなってしまった事は記憶に新しいが、日本国憲法もその解釈を拡大させたり、または例外を設けて行くと、最後は憲法自体が意味を成さなくなる。

日本が批准している国際法に措ける自衛権(right of self-defense)の概念は暫定措置である。

国家主権が外国から不正な動機によって攻撃を受けた場合、国家はこれを排除する権利を持つが、この条約の趣旨は国内法の正当防衛、緊急避難権に相当し、国連憲章第51条は国連安全保障理事会が紛争や戦争に対し、平和と安全の維持に必要な措置を取るまでの期間に付いて個別の自衛権行使を認めている。

この意味では国際法に措ける自衛権と日本国憲法の趣旨は親和性を持つが、同盟国が攻撃を受けた場合、これに対して戦線を布告する「集団的自衛権」の行使に付いては国際法上も認められた権利でありながら、厳密には日本国憲法との親和性は薄かった。

いわゆるグレーゾーンだった訳だが、ここは1992年、日本国憲法から切り離され、PKO派遣によっても日本国憲法は例外を作り、今回は集団的自衛権行使に及び、既に日本国憲法は完全にその平和概念を遺失する事になる。

国連安全保障会議そのものが、既に常任理事国の例外を常としている現在、そこに意義は存在しておらず、ここでの決定など然したる意味も無いが、こうした状況ゆえ、日本だけでも原則を全うする意思が欲しかった。

だがここまで例外が出てくるともはや日本国憲法は紙屑である。

ただ、自衛隊派遣を同盟国のアメリカはどう思っているかと言えば「足手まとい」かも知れない。

日本の防衛枠が拡大される事は喜ばしいが、沖縄基地問題の解決がはかばかしく無い、その代わりに自衛隊派遣法を口にされても、「感謝する」とは言いながら、沖縄基地を何とかする方が先決だろう・・・・と言うのがアメリカの正直な気持ちかと思う。

国内も上手く治められない者が海外への派兵など、ちょっとクスッと笑ってしまう感じである。

日本国内の反米軍感情に火が付かねば良いが、何て余計な事をしてくれる・・・と思ってやしないだろうか。

500万円を持っている人の集まりに、1万円しか持っていない人がどうしても参加しなければならない時、できる事はそこでの最低条件をクリアするのが限界で有り、大きな事を言った時は500万円の借金を背負う場合も出てくるかも知れない。

[本文は2015年6月24日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。