「怠惰な食物連鎖」

日本人なら誰しもが知っている童謡「ふるさと」、この歌詞の中に出てくる「うさぎ追ひしかの山」のうさぎは何故追われているかと言えば、「捕まえて食べられる」為である。

昭和30年(1955年)くらいまでの日本では害獣と言う意識が極めて薄かった。
獣は「害」ではなく捕食対象、つまりは天の恩恵だったからで有り、タヌキ、イノシシ、鹿などは大切な獲物だった。

これ以外でも渡り鳥の鶫(つぐみ)、スズメは言うに及ばず、キジ、山鳥、マムシに蜂の子までもが貴重な食料だったのである。

しかし貨幣経済が発展し、貨幣と言う自身の最前線が代理人に拠って為される社会が出現すると、食物連鎖の最前線が自身の手を離れ専門分業化し、ここにより効率の良い食物連鎖へと移行し、本来なら天の恩恵である捕食獣が眼前に在っても人事のように考えてしまう社会になって行った。

スーパーで買っている鶏肉が生きていた鶏だった事を概念出来ない、パック詰めされた牛肉が元は生きていた牛で有る事の認識に繋がらない状態が発生し、これらの効率の良い食物に拠って効率の悪い食物、自然に存在する食肉である獣は無用の長物と化して行った。

この状況は「食物連鎖に措ける怠惰」で有り、同状況が一般化すると、例えば蜂の子を例に取るなら、毎年人間に拠って蜂の子が捕食されると、その分全体の蜂の生息数が制限され、これに拠って広義にはキイロスズメハチなどに刺される被害は減少し、ハチの巣は総体的に減少する。

しかし蜂の子を取らなくなると蜂の相対数は増加し、蜂に刺される被害が増加する。

捕食上位の者が捕食を怠ると、直近の被捕食生物は上位食物連鎖生物に依存を起こし発展、結果として上位食物連鎖生物は下位食物連鎖生物を恩恵と出来なくなった時点から、下位食物連鎖生物に拠って事実上の攻撃を受ける事になる。

害獣の概念は至って傲慢かつ怠惰な考え方である。

獣は害ではなく、本来は天の恩恵だったものを恩恵に出来なくなった人間の責任である事が忘れられ、自身の勢力が衰退に向かっている事が意識できない、或いは自身の身分の程をわきまえない愚か者の考え方と言える。

地球の生物の仕組みは「弱肉強食」であり、この中で食物連鎖上の怠惰は「弱」に同義となり、従って人間は食物連鎖上の怠惰を行うと、部分的に食物連鎖上位から転落する。
これが害獣と言うものの本質で有り、人間が行ってきた開発、こう言う言い方は好きではないが自然破壊なども広義では捕食と同等の概念のものであり、経済的衰退が始まって開発が止まれば、ここでも食物連鎖上の衰退となる。

一方こうして食物連鎖上の責任、他の生物を殺してそれを食べる食物連鎖の最前線から貨幣と言う代理に拠って開放された人間は、生きる事の厳しさからも解放され、この部分でも実体は食物連鎖上からの転落を起こしているが、高齢化社会が考える時間的概念は基本的に未来が存在しない。

つまり現在を起点にして過去にしか目が向いていないのであり、こうした基準で未来を考えると、発生するであろう現実を無視した「文化」や「伝統」と言う衰退概念が生じ易い。

端的な例で言うなら、現代の農業は「農」ではなく、もはや「伝統芸能」や「伝統文化」になってしまっている。
環境に優しい米作り、日本の原風景を維持する為の農業となっているのであり、ここではそれを食べて生きて行くと言う最も大切な部分が存在していない。

為にイノシシや鹿を避ける方法として「電気柵」などと言う考え方などが出てくるのである。
山際の米の収量も少ない田を守る為に膨大な費用と人件費を投入し、そこに得られるものは何も無い。

10kgが3000円の米に対し、その数倍の補助金に拠って電気柵が設けられ、以後そこは人間も通る事が出来ない田畑となる。

繁栄と衰退はこの世の摂理、生きる者の拠り所である。
何かが繁栄し、何かが衰退して行かねば生物全体が可能性を失う。
これを過去の繁栄を基準に守ろうと考える所から無理が発生し、何でも許容する社会になって行き、滑稽な事になっていても人は気付かないものらしい。

天の恩恵によって作られる米や野菜に、やはり本来は天の恩恵だった獣達を今は敵に回し、電気柵など実に馬鹿げた話である。

私の耕作している田も、ついに今年は山際の4枚の田んぼがイノシシに拠って荒らされた。
田植えをし、ここまで育った稲がものの見事にあちこち円形状に倒され、これは秋になったら草刈機で刈って燃やさなければならないだろう。

そして行政や区から電気柵の話も出たが、私は断った。
4枚の田んぼから得られる米の総量は30kgの袋で60袋くらいであり、この為に使われる補助費用は簡単に米の販売価格を超える。

日々の困窮した国民の暮らしの中から集められた税金を、私の我がままの為に使って良いはずは無く、今は農村の風景の為に税金を投入するほどこの国は豊かではない。
我々が衰退した分、他の獣達が力を増したのであり、この現実には従う事が最も無理の無い方法のように思える。

米が絶対に必要なら全ての獣を抹殺してでも排除するが、必要でもない米を作る為に自然に逆らうのは畏れ多い。

来年から山際の4枚の田んぼはもう苗を植えない事になるだろう。
一抹の寂しさも有るが、これも現実なら有り難く拝領させて頂く・・・。

米に限らず私が作るものは自身が生きる為、またそれに拠って人も生かす事が出来るもので有って欲しいと言う願いである。

景観や文化と言ったふやけたものの為に何かを作りたいとは思わない。

[本文は2015年7月22日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。