「0と空白」

10進法の起源は人間の指の数に由来するとされ、それゆえ世界各国に古くから知られていたが、基本的にこれは言語に相当し、例えば日本語の平仮名を一つの単位として位置が上がっていく記述法を用いるなら50進法(この書き方は本当は間違っていて、正確には五十進法と書かねばならない)となり、現在でもフランスなどで残る20進法は、こうした言語の文字をセットにした記述法である。

ただし「0」の概念は世界的にはそれぞれ解釈が異なり、現在使われている「0」の概念はインドの概念だが、これが古代中国では「空」と言う表現が為されていて、日本でもつい最近まで使われていた「五十有余年」などの表現はこうした中国の「空」の概念を継承したものと言える。

すなわち中国春秋時代くらいまでに見られる数字の表現には、例えば53を五十有三と書き現し、この古い表記の仕方が「空」であったり一文字空けで、これらを統一する為に「○」が用いられるようになり、これに「零」と言う漢字が当てられたが、「零」と言う漢字の意味は雫(しずく)に近い。

零とは何かが僅かに残っているか、或いはこれから何かが始まる予感を想起させる漢字で、正確に言えば「0」の概念とは異なるが、反面その国家や国民が「0」をどう意識していたか、「0」に対してどのような思想を持っていたかが現れているとも言える。

本質的「0」の概念である「空」や無表記は遡れば中国「殷」の時代にまで及び、従ってこうした時代既に中国でも「0」の概念が必要とされていた事を物語っているが、人間の手の指は5本が左右に有り、この意味では人間の基本的な位取り記述法は「2・5進法」と言え、日本のソロバンなどはこうした状態に忠実な換算形式と考えられ、はじく部分が一玉分空けられている事をして「0」の概念と言えるのかも知れない。

唯、人間の指は5本と5本で実際に視覚的な10の数が概念されているのに対し、10進法で使われる数の種類は9つしかなく、この事を考えるなら10本の指の最後の1本は次の位に対する区切り、または準備に使われるようなところがある。

「零」と言う漢字が「無」ではない事の意味がこうした中から見えてくるような気がする・・・。

一方こうした10進法が自然の事象、例えば地球の回転や季節にどのように関っていくかを見てみると、例えば時間を計る時計は60進法だが、この中には10分と言う単位が有り、12時間と言う単位が存在する複合的な位置取り記述法になっている。

60と言う数字は2・3・4・5の最小公倍数であり、本質的には「円」や「周期」の概念から発展し易い。

古代バビロニアの60進法を見てみても、そこには既に内部10進法が形として成立していた事を考えるなら、彼等の時代既に自然の周期と人間の特性が融合をはかっていた事がうかがえるのである。

ちなみに時間の概念で、我々はどうしても過去から未来へ向かって時間が流れているように考え易いが、現実には時間はどの方向へ流れているかは解っていない。
過去から未来へ向かって流れている確率と未来から過去へ向かって流れている確率はそれぞれに3分の1であり、残りの3分の1は静止している確率である。

この時間の概念を自然の現象や周期に組み合わせる時、人類発生の早い段階から周期換算、円換算の概念が存在していた可能性は高く、円や周期は10進法では換算がしにくい。
そこで60進法の中に10進法が組み合わされて行ったのではないかと考えられている。

またこうした中で1週間を7日とする、この7の単位は位置取り記述法ではなく、分割方法と言え、これも古代バビロニアに始まりが有るが、365日を7で割ると52.142週となり、例えば1週間を6日とするならほぼ60週と言う事を考えるなら、敢えて7日とする必要はないように見える。

だがこれを月齢の29・5日に換算するなら12・3となり、ここで時間や季節とも関係が深い12と言う数字が出てくる。

1週間を7日とする形式が広まったのはバビロニアに捕囚されたユダヤ教徒達が解放された後、彼等の中でも7日を1週間とする形式が取り入れられ、これがキリスト教にも継承された為だが、古代バビロニアの1日の始まりは夜から始まる事を考えるなら、或いはこうした背景から7日と言う単位が発生したのかも知れない。

現在我々は朝日が昇る時を1日と考えているが、これはキリスト教の概念であり、バビロニアのみならず、古い時代には多くの地点で夜を1日の始まりとする概念が存在していた。

更に60進法を現す古代バビロニアの楔型文字は、10種類の文字が1セットになっているが、これらに5種類の付帯記述をして全体では59種の文字が形成されている。
つまりここでは10の単位を半位置取り記述法としながらも、1から10まで記述する形式が有る事で、10の単位は位置取り記述法(進法)ではない事が理解されている。

それゆえ59までの文字が在りながら、次の始まりである60の文字は表記されない訳である。

位置取り記述法(進法)は満了型、限界型の換算方式であり、次の段階にはその数の一番最初の数と「0」が割り当てられる。
その始まりと「0」、「無」や「零」が次の単位と言う考え方はとても興味深く、更に言うならこれは予めの数が概念されていて発生する方式と言う事ができる。

つまりは分数の概念が根底に潜み、予めの数と言う点では、その流れが確定されたものを計るものだと言え、無限に連続する数字の列を1単位とする数を位置取り記述法で追いかけるなら、その数字列の最後は必ず空白になり、ここでは「0」と「空白」「無」の概念は必ずしも同じではないような気がする・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。