「満面の笑顔の稲」

去年の秋くらいからだろうか、少しずつ父親の言葉が少なくなってきていた。
特に朝、食事の支度をしている時など、私が全て作り終えるまで台所へは来ず、私が作り終えて台所から出て行くのを待って入ってきている様子だった。

「嗚呼・・・、手をとらせてしまうな・・・」
いつしか父は私の顔を見る度に、そんな事を言うようになってしまった。
また1ヶ月の内半分は寝込んでいる妻も「ありがとう、ありがとう」と言う言葉が多くなって来ていた。

それまでも忙しかったが昨年の秋以降仕事が更に忙しくなり、今年に入って取引がもう1ヶ箇所増えた時から私は完全に時間が無くなった状態だった。
夏には徹夜で仕事を仕上げ、翌日には農作業と言う状態が頻発し、家族のみならず近所の人の目からも「あれ(私)は大丈夫か?」と思われてしまうようになっていた。

またこうした状態から耕作している田もどこかで美しさを失い、倒伏や稗の生えている田も見えるようになっていた。
如何なる理由が有ろうとも荒れた者が作るものは、その荒み(すさみ)がどこかに出てしまう。

美しさとはある種の最短距離、水が流れるように、雨滴の角度のように、或いは風が為す木の葉の渦巻きのように、全く道を違えずにこの世の理に適ったものかも知れない。
だとしたらそこに美しさの欠けたものは、どこかでこの天の理から外れている事を思わずにはいられない。

更には病人を遠慮させてしまう私の忙しさとは何か、私の忙しさは私を痛めているのではなく病気の家族を痛めているとしたら、その忙しさに何を見ることができようか。

私は実は今年の初めから3・6haの水田耕作面積を6分の1に減らす為の準備をしてきていた。
美しさを失ってくる田と家族の状況に鑑み、しかも預かっている田を荒らさない方向で私以外の耕作者を探していたのだが、昨日やっと2名の耕作者との話が成立した。

1名は私より10歳年上、更にもう1名は70歳だが、2人とも大型の機械を導入していて人手もある事から、少なくともこれで私が作るよりは美しい田になるだろう。

2人には耕作し易い私が所有している田も譲って、彼らが残した端々の田を自分が作ると言う話に怪訝そうな顔をしたが、「この水の少ない地域であんたと米を作っていたら、いつか絶対あんたとは仲良く出来なくなるし、あんたも私とは仲良くは出来なくなる」と説明したら、黙って頷いていた。

この田畑は天や先祖からの預かりものゆえ、自分より美しくそれを作る事が出来る者が在れば劣る者は譲るのが天の理、最短距離である。
ここに自身の意地や感情を混じえる者はどこかで天に弓引く者のような気がしていた。

後もう少しで稲刈りが終わる。
この面積を耕作し稲を刈るのは今年が最後になるが、私はこれらの田のおかげで家族を養い自分もまた養う事ができた。

幼い頃から農業は大嫌いだったが、この田畑と父母、それにこの地に関わってきた村の者達こそが今日の私を私で有らしめているに違いない。

私は今最後の苦しみを楽しんでいる。

長雨でぬかるんだ田で泥だらけになって全面積の半分ほどは鎌で稲を刈らねばならぬ、この事をいとおしみながら、楽しみながら、有り難く思いながら稲を刈っている。
来年からこの田を作る人は私より高齢の人だが、今この瞬間を思うなら高齢で有ろうが無かろうが、そこへ行かねばならない。

遠い未来はまず明日を何とかしなければ在り様が無い。

いつか彼らが田を作れなくなった時、もしかしたら私が強大な力を蓄えて戻ってくるかも知れない、或いは私が先に病死するかも知れない。
それは分からないが、どちらにしても未来は今を何とかした者でなければ夢見る事が出来ない、そんな気がする。

来年から大幅に耕作面積の減る私は、今度はきっと美しい田を作る事が出来るかも知れない。
一度で良いから、まるで晴天が満面の笑顔になったような、そんな稲を作ってみたいものだ・・・。

[本文は2015年10月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。