「天意と景色」

必ずしも全てが符合する訳ではないが、歴史的には世界的な視野でも国家や民族が大きな変化を起す時、その前後には気候の寒冷化、若しくは温暖化が存在し、これに並立して火山活動や地震活動が活発化する傾向に有り、この気象と地殻活動の変化をどちらが主としてどちらを従とするかの区別は難しい。

我々は一般的に社会システムが変化して行く過程を国家の成熟度、政治的、経済的変化、或いは豊かさに拠る慢心等の要因として考え易いが、例えば日本の縄文時代は温暖化傾向に有り、この温暖化から気候が寒冷化に向かう過程と前後して縄文文化は弥生文化へと変遷し、やがて中世には温暖化へと向かい、この過程では平安貴族社会から武士の封建制度が発生してくる事になる。

更には近世、江戸時代にはまた寒冷化に向かう事になるが、ここでもその寒冷化が最も深まった19世紀半ばに徳川幕府は大政奉還し、近代の明治政府に移行する。

そしてここから緩やかな寒冷化の緩和が始まり、やがてこの寒冷化が温暖化に向かう過程、1940年前後には太平洋戦争が横たわる事になるが、このいずれの時期でも、少なくとも記録に残っている範囲では気候が激化し、南海地震や東南海地震、関東地震が発生し、富士山が噴火している。

尤も富士山の噴火に関しては1854年を最後にマグマが噴出するような噴火は起していないが、中世以降の富士山の噴火傾向として100年くらいの周期と、300年から400年くらいの大きな周期が漠然と見て取れ、1854年の噴火も火の手は確認されたものの、実際の噴火活動は100年周期クラスの小規模なものだった。

この意味では富士山のマグマ噴出クラスの噴火活動周期の最新記録は1707年、宝永大噴火と言う事になり、次の周期に達していない可能性が出てくる。
300年周期なら2007年、400年周期なら2107年と言う事になるが、どの周期も正確に400年を待ってはいない。

200年の後半、300年の前半での発生は勿論周期の範囲と言う事になる。

そして一つ言える事が有るとするなら、こうした火山噴火や巨大地震、社会システムの変化の前には間違いなく気象の激化、異常気象の増加、気象の局地性と集中性が出てくる事であり、これに鑑みるなら気象の激化や局地性、針の先のような局在激性気象が出現した時には気象が寒冷化か温暖化に向かう変化の兆しと言え、火山噴火や巨大地震の発生に備えると共に、社会システムが変化して行く過渡期に来ている事を認識する必要が有るのかも知れない。

今夜はこうした気象の変化と激化、自然災害と社会システムの崩壊が重なった最も顕著な事例、日本の歴史上唯一の天皇に対する直接クーデター、平将門の乱が発生した時期を参考に、僅かばかりだが気候と天意と言うものも少し考えて見たい。

中国大陸や朝鮮半島との関係が安定期を迎えた律令国家晩期の日本は、海外との交戦の必要度の薄さから軍隊機構を縮小して行ったが、これにより天皇制は権威は有ってもそれを担保するものが失われ、地方から始まって官僚機構が腐敗、統制が取れない状態のまま平安京では優雅な貴族文化が花開いていた。

しかし845年に生まれた菅原道真が19歳の時、864年には富士山が現在の青木が原を形成したとされる貞観の大噴火を起し、この少し以前から存在した天候不順と地震の多発、それに気象の激化で農業生産は極めて深刻な状況となっていたが、平安の都ではこうした庶民の貧しい暮らしを省みる事も無く税を取り立て、花鳥風月をめで、恋の歌が詠まれる雅な暮らしが続いていた。

903年、菅原道真は左遷された大宰府で永眠、平将門は940年、37歳で流れ矢に当たって死亡しているとされる事から、奇しくも菅原道真が没した年に誕生している事になる。

この事から平将門が天皇に反旗を翻し、自身を新皇(新たな天皇)と名乗った、その担保を菅原道真に求めたか、或いは菅原道真を担保とする為に誕生年が操作されたかは解らないが、903年に菅原道真が没して以降政敵の「藤原時平」が死亡、朝廷では子供や孫などが次々死亡し、930年には朝議中「清涼殿」に落雷、多くの高官が死傷した事も有って、菅原道真の祟りを恐れる朝廷に取って、新皇の担保が菅原道真と言う在り様はただならぬ事態だった。

この時期、おそらく平安期の温暖化はかなり進み、これに拠って気象が激化傾向に入り、ついで富士山が活発に噴火活動を始める。

高温は各地に疫病を発生させ、天候不順から農作物は不作になり、そこへ東国蝦夷など半ば奴婢のようにしか考えていなかった平安京は無慈悲に課税し、その徴収は統制の取れていない国司官僚に付託、国司は場合に拠っては通常税の2倍、3倍と言う税を徴収して私服を肥やしていた。

937年、富士山が再度噴火、これに拠って関東は農業生産に甚大な被害を被るが、朝廷側の課税は減税措置も無く関東では農地を棄てる民衆が続出し、こうした人々が姻戚中で権益抗争の最中に在った平将門の人柄を慕って集まって来ていた。

将門は自分を頼って来る者を決して見捨てる事が出来なかった。
それゆえ彼は怒涛の先端に在って自らを新皇と名乗らざるを得ない状況に追い詰められて行ったが、おそらく新皇を名乗った時期から既に自身の死期を予見していたに違いない。

940年2月、農作業が始まる事から兵達を村に返していた将門は、僅か400の兵で朝廷編成軍4000と渡り合い、おりからの北風を味方に弓矢でこれを撃退する。
しかし勝ったと思った瞬間、北風が一瞬逆に入れ替わり、油断していた将門は敵陣から流れてきた矢を額に受け馬上から落ちる。

この様子は1976年NHK大河ドラマの「風と雲と虹と」でも描かれていたが、大河ドラマでは矢を射た者が特定されているような表現がなされていたが、現実には風に乗った1本の矢であり、後世戦を前に兵士を村に返す事を失策とする意見も有るが、困った者は女子供、農民まで救おうとした平将門のこうした優しさこそ力の源であり、人々が苦難にあえぐ時どこかで将門に救いを求める、国家の最後の担保としての将門には、勝つ為に自分を慕う者達を犠牲にする事は出来なかった。

これだからこそ将門なのである。

そしてこうした心優しき善の者がどうして1本の流れ矢に倒れるのか・・・。
「将門記」には花が開くその瞬間落ちたかの如く、燦然と輝く月が昇り始めたその時、雲が月を隠すように・・・と記されている。

天意は意味を持たない。
その時々で善で有るか悪で有るかを問わず、先に通じるものである。
平将門がもし天皇に打ち勝っても、彼が開くのはやはり自身をトップとする天皇制である。

だが将門が討ち死にし、それを討った方の子孫が平清盛で有る事を考えるなら、その清盛と縁の深い織田信長がやはり天皇制を否定しようと試みる事を考えるなら、最初に後の何かが在って、そこに将門の役割が有った様に見え、もしかしたら将門は死の直前にそれを全て知ったかも知れない。

天意は流れ行く川の水面の煌き、風に揺れるススキの穂・・・。
私は時々天意とはこの毎日の気候、景色なのでは無いかと、そんな事を思うのである。

[本文は2015年12月2日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。