「社会表現型可塑性」

B君に好意を寄せ付き合っているA子さん、しかし付き合い始めて半年、どこかでB君は憂い顔である。
そこでB君の友人C男君にB君はどんなものが好きなのかを聞いた所、「あ~、やつはケバイ系の女が好きなんだよ」と言う事だった。

早速ケバイ系の化粧品とド派手な洋服を調達したA子さん、銀座のクラブママも真っ青の格好でデートに出かけ、それを見たB君はA子さんに惚れ直し、付き合い始めた頃のように会話が弾んだのであり、その当初はケバイ格好に抵抗も有ったA子さんも、いつしかケバイ格好にも抵抗が無くなっていった。

また消費税増税に物価の高騰、その割には給料が上がらない会社員のSさん、大学進学を目指す娘の姿を見ていると、経済的理由でそれを諦めてくれとは到底言い難い。

頭を抱えていたら、この状況では私も頑張らねばと言う事で、それまで専業主婦をしていた妻がパートで働くと言い出した。
そして娘はめでたく大学に合格、Sさんと妻もめでたく教育資金危機を脱した。

何の話かと思った方も多いだろうが、このA子さんとSさんの妻の変化を「社会表現型の可塑性」と言うのである。

元々「表現型」とは遺伝の中に存在する「幅」の事を言い、例えば人間として生まれてきても、寒冷地では平均的に体重は増加傾向になり、過酷な生活環境では性認識は遅くなりながら、生殖可能下限年齢は低年齢化する。

これらは遺伝情報が絶対的なものなら変化の仕様はないが、幾つかの遺伝情報が相互に作用して環境に順応するシステムが出来上がってくる為で、その顕著な例が植物であり、動く事のできない植物は環境の変化に対して自身が変化して環境に適合して行く。

植物の場合は環境に対する即時的適合変化がある。

一方動物のように植物より環境選択能力が大きい生物は、植物ほど大きな環境に拠る変化を起さないが、同じように環境が変化すると、それまで在ったものの中で不要なものは停滞し、必要なものが別のルートから補填されて環境に適合しようとする。

もっと簡単に言えば「無理が通れば道理が引っ込む」に同じなのである。
生物の絶対的命題は生命の維持と子孫を残す事だが、これらの命題に付帯する事項に対しては絶対的変化を起せない。

それゆえ環境変化に拠って絶対的命題が脅かされるとき、その他の命題は無節操な状態で環境に順応し、この環境に対する順応が当初絶対的命題であったものに変化を加え、これが無限に変化して行く。

つまり生物は変化しない為に小さな変化を繰り返し、その小さな変化は生物と言うカテゴリーの中では(もしかしたらこれからはみ出す時がくるかも知れないが・・・)無限に変化し、変化しない為で有ったそのものも動かして行くのである。

ただ、可能性としてこれまでの地球上の生物発生に関して、これが既に終了していて循環している場合も想定され、その場合生物は一定の限界範囲を循環している可能性も有るが、こうした循環でも以前の円周上を正確に辿っているのではなく、同じ円は決して築けないだろうと予想される。

そしてこうした生物学的な、或いは脳神経細胞学的な「表現型可塑性」は社会や経済に措いても全く同じ原理性を持っていて、こちらは生物学的な制約が無い分、植物以上の表現型と可塑性を有し、この表現型の可塑性は「人類」と言う閉じられた範囲の、しかも社会や経済と言う限定を持つなら、既にあらゆる生物が出尽くしている状態に同じと言える。

すなわち社会や経済の「表現型可塑性」は小さな循環を繰り返しながら大きな円周上を周回していると観る事が出来る。
これを視覚的に表現するなら、地球が自転しながら太陽の周りを周回している姿に同じかも知れない。

日本はこれから人口が減少し、この中で以前であれば経済、金で解決できたものが解決できない状況を多く迎える事になる。
こうした中でこれらを政府や行政の政策に拠ってのみ回避する事は困難な状況であり、現在日本に措けるこれまでのシステムは崩壊の危機にある。

既に政策は現実の国民生活と言う環境の変化を干渉に拠ってコントロールする術を失いかけていて、これはバブル経済とい言う比較的大きな「表現型」が成立する環境から、適合しない環境に陥って以降、国民がその生活の質を見直すと言う表現型の可塑性を発揮して、しのいで来たものと言える。

それゆえ、ここから先今まで以上の環境の変化、経済的停滞や財政赤字の増大、少子高齢化、社会福祉の減衰などが深化すると、国民、民衆の変化は小さな循環の持つ波の性質に拠って、大きな「表現型」の前の価値観、環境と同等の環境変化を被り、これに順応する為に直近まで存在した価値観を逆転させる現象が発生する。

高齢化介護社会と年金制度の一部、或いは全破綻は結果としてこれまでの個人享楽主義を現実が反転させ、核家族構成は減少し、経済的効率の面から個人の享楽が制限された世代同居家族構成とへと帰っていく事になり、同じように経済的困窮は医療サービスに対する国民の意識も変化させる。

むやみやたらと医者にかかれない現実を迎える事になる。

更に今日の高齢者介護システムはいずれ矛盾から破綻し、ここではその実態を目の当たりにする若年世代に拠って結婚、出産と言う生物的命題が再評価される可能性が出てくる。

「子供の世話にはならない」として自由で好きな事をして暮らしてきた、それは幸福な事だが、晩年苦しみ喘ぐ親を見て子供はどう思うだろうか、子供が親の扶養と言う法的責任を免れない現実は、子供の立場の者たちの意識を確実に変えつつある。

自己責任の中で生きて来た、だから一人で野晒しになろうが構わない、そうして世の中を終わった場合も、その本人はともかく、遺体を処理しに来た若い警察官や行政の職員達は、遺体となった人の価値感を良いものだったと認める事は少ないだろう。

経済と生物学的命題の関係は、経済が豊かになると生物学的命題の価値観は薄れ、経済が停滞や破綻すると生物学的命題の価値観が上昇し、これらは小さな円の上を循環しながら、人類と言う大きな円周上を更に周回している。

経済の一部、或いは全破綻は決して悪い事だけでは無く、これまでのことが出来なくなったと言う環境の変化にしか過ぎず、生物は「表現型の可塑性」と言う無言の予め備わった大きな天の恩恵の中に在る。

そして表現型の可塑性は何か問題が発生した時には、既に起動している。
日本はもう現実レベルでは変わり始めている・・・。

[本文は2016年1勝ち25日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。