「株の適正価格」

この世界のあらゆる物質、生命を含めてその価値を問うなら、全てのものは価値が存在しない。

我々が思う価値とは人間社会の物質的、精神的需要に拠って成立し、この需要は普遍性と汎用性を持ちながら時と場、そして人の事情に拠って多くの例外、いや全てが例外に拠って構成されている。

それゆえ我々の世界で価値に措ける「適正」、平均値は存在しても、その平均値そのものと時系列上の安定性は現実には有り得ない。

あらゆる物質、人間も含めた生物の価値は0から100まで有るとしたら、この内0と100を排除した区間を彷徨っているのが普遍的な価値の在り様と言え、適正な価値と言うものは存在せず、発生してきた結果、現実は全て適正と看做すのが正確な理解と言える。

株価に措ける適性な価値もまた、こうした人間社会の原理から逃れる事は出来ず、日経平均株価が20000円でも8000円でも、全てその時の価格は「適正価値」である。

社会や人間の需要と供給の関係、世界情勢、該当国の政策と国力と言う、世界のあらゆる状況や人間の需要がパズルのピースとなって、瞬間々々の画像を構成し、これが常に変化して行く。

この中ではあらゆる事が時間系列上に並ぶ事象でしかなく、この事象は現実には止められないが人間はどうしてもこれを自身の事情に拠って止めたがる。

そこで自分が最も希望とする事象の場面を「適正」と考え、常にこれが正常な状態と考え易いが、そもそもあらゆる事象は時間経過と共に変化して行くのが正しい在り様と言え、これを止めて考える事自体、その考えが整合性を持っていない。

日経平均株価に措ける適性価格など初めから無いのであり、適正価格言う個人の欲望の集積が招く妄想とも言えるかも知れない。

また国際社会は株価を経済の重点事項と考え、各国とも株価と通貨取引こそが経済のような考え方を持っているが、株も通貨も取引の一つの形態に過ぎない。

もし株取引の秩序が完全に崩壊しても人間は次の方法を必ず考え出す。
株価が0になったとしても日本国民が明日から食うにも困るかと言えば、絶対そうはならない。
「景気」と言う亡霊を恐れ、本来恐れ無くても良い事を恐れているだけである。

人間が生きて行く過程に措いて、株価などが占める重要性はさしたるものも無い程度の事で有り、これを生死に関わる重要性にしてしまった者たちだけがそれを恐れるのであり、世界中の大多数を占める一般庶民は有史以来常に底辺の最低限の暮らししかしておらず、この最低限の暮らしの者に取って株価変動の影響は少ない。

景気が良かろうが悪かろうが庶民の暮らしなどそう大きく変化する事は無いので有り、どんな状況もそれが長く続く事もないのである。

国際的な景気低迷をみんなで嘆く必要は無い。

企業は株価ではなく、地道な生産と販売活動をおろそかにする事無く、民衆もまた景気と言う亡霊に踊らされずに質素倹約に努め、動ける者はどんな仕事でも良い働いて蓄財の道を歩むなら、株価の低迷などそよ風のような心地よさでしか無くなるだろう。

また日本のマイナス金利だが、ここまでやっても日本の円が下がらないのは、世界情勢が日本より悪い為で、しかもこの状態はそう間単に改善されない。
だが一方こうした状態は日本がどれだけ円を印刷してもその価値が下がりにくい事を意味している。

これは有史以来人類文明で初めてのチャンスのように私は見える。
日本はこれを上手く使えばこれまでの世界経済の秩序を壊し、新しい世界的な経済秩序を築く事が出来る可能性を持っているように思える。

ヤフーブログ以外の方が昨日のコメントに関し、これが読めないとのご意見が数件寄せられた為、昨日のコメントを記事にさせて頂いた。

尚、今日は日本全国「暴風雨」に警戒して頂きたく、お願い申し上げます。

[本文は2016年2月14日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。