「白日夢」

第二次世界大戦中のイギリス首相「SirWinston Leonard Spencer-Churchill」(ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル)は「民主主義は最低だ、だが人類はこれ以上の方法を持たない」と言っていたが、全く同感だ。

民主主義は確かに最低だ。
だがその一方例えば完全な方法を100とするなら、人類全体の妥協点を探った場合、限界が10までだったら民主主義はこの10かも知れない。

長い年月試行錯誤を繰り返して苦労に苦労を重ねて築き上げてきたものである事もまた事実である。

そして民主主義は一つの思想であり、その本質は形を持たない。
言うならば「心得」(こころえ)程度のものであり、実際の運用や施行などの手法はその該当年代や民衆の意識に拠って変遷するのが妥当かと思うが、ここで民主主義を固定的、絶対的なものと考えるなら現実の運用は未来永劫変化できず、為に現実の大衆意識と乖離する。

また民主主義に限らず、あらゆる思想は長く続けていると現実の前に例外を増やし、本来の意義を拡大させ、思想の濃度を希釈する。
つまり思想を形骸化して失わせる方向へと動く為、機械の部品のように一定の時期が来たらナットを締めなおしたり、或いは部品の交換、もっと言えば新製品に買い換える作業が必要になってくるが、人類と言う生き物はどうも民主主義だの平和、自由、平等と言う事になると、この形すら見えないものを絶対的と思い込んで、部品の交換や新製品の買い替えは考えないようだ。

日本の公職選挙法の基礎は太平洋戦争前の制度にGHQが細則を付け加えた程度のもので、よしんば太平戦争終結後を新法としても、既に施行から70年が経過している。
もはや日本の民主主義は手続き重視の形骸となってきていて、現行の選挙制度では国民の意思を反映できない状況になってきている。

2016年7月10日投票日の参議院銀選挙に措ける国民の関心は極めて低く、本来なら憲法改正、経済対策、行財政改革、少子高齢化、災害対策復興など多くの議論を要する争点が存在しながら、立候補者の大方は与野党含めて月並な「国民の生活重視」を訴え、それも面倒なら候補者の名前が連呼されるだけ、地域に拠っては候補者も政党関係者も来ない、どの党の誰が立候補しているかすら、住民の大半が知らない状況が出てきている。

民主主義は結構な事だが、箱に腐った林檎しか入っていなければ、どれを取っても腐食してどろどろになった果肉で手が汚れるだけである。
民主主義の前にその材料すら揃っていない状態では民主主義など成立しようもない。
民主主義と言う本質が抜け落ちた「手続き」、餡が入っていないアンパン状態が今回の参議院選挙と言うことが出きるだろう。

この改善策は2つ、まず一つ目は定数至上主義の廃止だが、予め定数が決定していると上位当選者の獲得票に拠っては低い獲得票で民意の多数決の原則から外れた者が当選する確率が出てくる為、例えば有効投票数を立候補者の数で割って、その平均得票数を割り出し、これに満たない者は全て落選とする方式を採ると、定員に及ばない場合が出てくるが、こうしておけばもう少し立候補者とそれを選出する地域の真剣味は増すだろう。

また比例代表は基本的に廃止すべきだ。
政党政治は民主主義にはならないし、これに伴って政党助成金制度も廃止すれば国民負担は軽くなり、手続きも簡略化できる。

そしてもう一つは選出型選挙の見直しであり、排除型選挙を実施すれば投票率は格段に向上する。
国政選挙の立候補資格は戦後大幅に改善されたとは言うものの、それでも供託金の300万円を用意しなければならない実情に鑑みるなら、戦前の一定の税を納付していなければ立候補資格が無い形態とそう大きな変化が無い。

この供託金を10万円にまで引き下げ、25歳以上であれば誰でも立候補出来るようにして、今までの公職選挙法を緩和する。
10万円の供託金は当落の有無に関係なく返還せず、これをテレビの政見放送に充当し、ネット活動の規制も無くし、一件が300円以内なら候補者の名前や写真が入った景品の配布や、戸別訪問も出来るようにすれば頑張る候補者はきっと頑張るだろう。

その上で選挙ポスターの掲示板は廃止する。
あんなものを見て候補者を選ぶなど時代遅れも甚だしく、有権者は誰かを選ぶのではなく、この者だけはだめだと言う候補者の名前の下に丸を付け、これは複数可能にして措けば良く、やはり有効投票数の平均以上の排除票を獲得した候補者は落選と言う形にしておけば、もう少し民意は反映されるだろう。

そしてこの場合も定員割れは発生するが、必要の無い者まで定員と言う恩恵に浴して国会議員を続け、国費でこれを養うなど、この日本の実体経済では既に許されないのでは無いだろうか・・・。

人間は他者の良い部分を探すより悪い部分を探すに長けている。
それゆえ自然な状態なら選出という形態は数が少なくなり、これを定員と言う枠で保護すると、この時点で民意は干渉を受けた事になる。

自然な状態で排除選挙法を実施するなら、自然に排除される方が多くなる事から、何もしなくても最低限しか選ばれない。
これは一種の規制緩和による選挙制度の改革だが、一つ言える事は、規制緩和とは既存に行政が持っている権益が分散されて個人に帰ってくる事を意味する。

民主主義だから良い政治になるとは限らない事、民衆が政治意識を持たないと、手にした規制緩和は民衆の側に重い責任となって帰ってくる事を忘れてはならないだろう・・・。

草刈を終えて昼寝をしていたら、ちょっと白日夢を見てしまったらしい・・・・(笑)

[本文は2016ねん7月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。