「推定三次元位置情報」

臨死体験の初期段階で発生する「幽体離脱」、病院で自身が危篤状態にある姿を、自身がその部屋の天上付近から眺めている状態、或いは「金縛り」の最終段階に措ける「幽体離脱」でも、この視覚的情報は第三者が共有できない。

この意味に措いては「doppelganger」(ドッペルゲンガー)現象で、第三者が視覚情報を共有できない自身の姿の位置情報の投影錯誤と同じだが、一方ドッペルゲンガー現象によって自身の姿を自身が目撃するケースはドッペルゲンガー現象の半分の事例であり、残りの半分は第三者も物理的移動速度の限界を超えた状態、離れた地点で同一時間に2名以上の第三者が同じ人物を目撃する事から、ドッペルゲンガーの視覚情報は一部が外に対して開かれているが、「幽体離脱」の情報は外に対して開かれていない情報と言える。

人の「死」は当事者以外の者には瞬間のように思えるかも知れないが、実は結構早い段階から人の体はそれを認知している可能性が有り、例えば事故死に措ける事例でも「何となく懐かしい友人や知人に会いたくなった」、「実際に会って数日後に事故死した」などの事が発生するのである。

「死」の初期段階は「脳死」だが、これに至る2時間ほど前から脳は奇妙な瞬間波形を定期的に繰り返し、それは機械波形的には瞬間なのだが、おそらく当事者はその瞬間の中を無限の時間として意識している、または実際の時間経過より遥かに多くの時間経過を経験しているものと思われ、脳死によって脳は死ぬと判断されるのだが、脳が死ぬ事と心臓が止まる事は一致しない。

従って脳死は「死」の前段階と言え、そこから心臓が停止し呼吸が止まり、血圧が無くなった状態が訪れるが、これでもまだ「死」の99・9%であり、残り0・1%はまだ「生」の中にある。

ここでは「生」と「死」が濃度のせめぎあいに陥り、やがて「死」の濃度が全体を覆うと言う表現が理解し易いかも知れない。

脳波が止まり心肺が停止し、血圧が0になり脈拍が停止してから、つまり外部観察的には「死」の状態に陥った時、そこから更に3分後まで脳波測定を継続していると、脳波が一時的に通常の意識レベルにある状態を示し、これが人によっては数回繰り返され、2時間後に蘇生するケースまで出てくる。

この事から脳死状態で心肺が停止したからと言って、それが人の死となるか否かは医学的な所見であり、必ずしも現実を全て反映しているとは言い難い部分が発生するが、基本的には24時間以内に蘇生しなければ、その後の蘇生率は極めて低い事から、現行日本国内法に措ける「死」の概念は実質的な整合性を持っている。

だが、脳死から心肺が停止して3分後、呼吸も無く酸素の供給も無い状態で脳は何を見ているのだろうか・・・。

脳波的には瞬間だが、これを感じている脳は、もしかしたら無限の時間の中に在るのかも知れない。

元々人間が持つ空間的な制約と時間の概念は「社会的」なものであり、これから解放された状態が脳にとってはあらゆる制約から解除された状態なのかも知れず、従ってここでは「生きている」と言う「社会」に在る者には瞬間でも、死の当事者には無限と言う概念は有り得る。

人間の視覚情報の本質は「平面」より下に有る。

テレビ画像のように、平面に立体性を持った画像を映している方式より更に「虚性」なのであり、視覚情報を確定させる為に触覚や聴覚、嗅覚などが存在している。

目の前に有るテーブルが視覚的に見えていたとしても、それを触って感触が無ければ我々はそれをどう判断するだろうか。

視覚を担保しているものは視覚以外の五感なのであり、単に視覚情報の投影だけなら空間的な制約を持たない、重複や非空間投影すらも現実として見る事が出来る。

また人間が意識する自分と言う容積は視覚情報でも確認できるが、では後頭部や背中などはどう意識されているかと言うと、「他」の情報を基に暫定の意識が為されているのであり、これを可能にしているものは「他」の情報、他人や景色などで、自分を高い所から眺めた視覚情報を想定する場合、その多くは他の情報が総合された評価によって推定された視覚情報となる。

それゆえ例えば「幽体離脱」でも「うつむせの状態」の自分を見る事例が極めて少なく、これは基本的にうつむせの状態が「暫定情報」だからであり、そこでいつも見慣れている仰向けに寝ている自分の姿を見易いのである。

更に人間の脳は微弱電気信号の情報束であり、周囲の空間の情報は物質の反射光情報の解析結果と言う事ができ、この情報を基に自分の位置が確定されているように意識され、他人の姿の情報を使って自分が本来認識できないはずの情報を処理している。

この事から視覚情報の投影は通常そう大きな過ちを犯さないが、死に瀕した場合、他の情報が繋がりにくくなる事で、視覚情報は制約から解放され、本来の空間的、時間的制限を受けない状態となり、これは視覚情報の暴走とは概念が異なる。

脳は最終的には死を肯定する。

そしてこの事が死の過程では「苦痛からの解除」作用をもたらし、瞬時にして自身の一生を見る事になり、先に亡くなった者たちを見る事になる原因かも知れず、臨死体験経験者が同じような死後の世界を見る原因かも知れない。

統一的な社会に存在した幾多の人間の情報が持つ基礎的幸福感、達成感などはそう大きな違いが無く、この事から臨死体験で見る視覚情報は、その人間が持つ最後の社会的接点と言えるのかも知れず、こうした経緯を鑑みるなら、脳と言う組織は最後の瞬間まで「社会」と言うものの概念の中に有る、人間の文明や知識、そうしたものを「生」の基盤としているような部分が垣間見える。

「死」の概念は生きている人間が絶対知ることはできず、臨死体験にしてもそれが死後の世界である確定ではない。

蘇生して自身の臨死体験を語るその人の体験とは脳の記憶である。

従って臨死体験の記憶情報はどの時点で見た視覚情報かを判別できない。

もしかしたら蘇生して目覚める瞬間に見た情報かも知れないし、遥か昔、母親の胎内にいた時の情報かも知れない。

臨死体験を臨死体験だと確定的に意識させているものもまた脳なのである。

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 残念ながらと言うべきか、幸いにもとも言うべきか、「臨死体験」は有りません。少年の頃、何回も金縛りには遭いましたが、慣れると段々恐怖の感覚が薄れ、自分を見ているらしい像が消え、身体の緊張が解れ、ああ、間もなく夢から覚める、という自覚が湧いてきて、平常に戻りました。

    色んな事を脳が指令しているのは確かなようですが、それが自己と同一かというと、必ずしもそうではなく、別の独立した「もの」で有る部分が多いような気もします。

    眠るような大往生って言うのも有るようですが、各種の死の順序は各人様々で、最後は苦しい事が多いように感じております、それで、嗚呼これだ、と思いながら死ぬのではないかと思っています。

    自由が有っても、お金が有っても、すべてを使いきれるわけではなく、色んなものを残して、その中には、論理上は可能なのだけれど、実際は出来ず、切なさも含めて、1人で死んで行く物だと思っています、だから笑って生きようなどと、人には言っていますが(笑い)、自分は結局、手を拱いて死んで行く気がします。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      生物にとって生と死は最も大切なテーマなのですが、では生きている事と死んでいる事の差は何かと言う事を考えるなら、ここに存在する現実は物質的観点で言えば集合と分散と言う形状の変化でしかないかも知れない。しかしこうして発生する物質やエネルギーの集積状態(生命)は集積した現実の中で観念を持ち、ここで「自己」や「生」と言う事を考えます。その実情は細胞やエネルギーが集まっただけなのですが、ここで総合コントロールをする頭脳が「全体」の概念を持ち、他と自己を区別するようになって行く訳です。面白い事ではありますが、我々各々が使っているパーソナルコンピュータが総合管理された結果出現する、人工頭脳の発展段階と同じモジュールを示すことになります。人間の死生観は社会的な背景を多く加味されたものですが、現実の物質的生命は連綿と続く物質の集積と離散であり、生命もまた子孫を残しながら継続される事に鑑みるなら、或いはこれら流れのすべてが本当の生命の形かも知れない。
      我々が大切に思っている個人の死生観は実は存在しないのかも知れない、或いは人間が持つ望みや希望程度の事であり、森羅万象に出現する現実の中では意味を為さない妄想に過ぎないかも知れない、そんな事を私は時々思う訳です。

      コメント、有り難うございました。

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