「生命の流れの祝福」

脳に措ける神経細胞の伸び方は「雷」に似ているが、雷は厳密には上から伸びる電気と、僅かに下から迎える電気があり、これが連結して落雷となる。
しかしこの雷のシステムには明確な因果律が認められず、どこへ落雷となるかは地面からも迎える電気がある以上、運命論的な側面を持ちながら不確定性の範囲を出ない。
 
同じように生物の神経細胞もどちらか片方が伸びて何かに繋がるのではなく、繋がろうとする先からも、それに対するアクションが存在する。
例えばイモリやカエルなどの両生類では網膜から中脳へ繋がる視神経細胞を切断して、つまり視覚能力を失わせても、その細胞の結合は早い間に始まり、本来の機能ととほぼ同じ機能を持つ視覚能力が再生される。
 
だがこの際、最初のオリジナルの細胞結合、すなわちイモリやカエルが誕生するときに見られる神経細胞の結合は、細胞同士がまっすぐ伸びて結合されるが、オリジナルが切断された後再生される場合は、神経細胞の伸び方が迷っている、若しくは何かを試行錯誤しながら、相手を探すように結合することが知られている。
 
そしてこれがニワトリの場合、ニワトリの視神経も切断されると、やはりイモリやカエルと同じように再生細胞が伸びていくが、神経細胞が一度本来結合すべき方向と違う方向に伸びだすと、その方向へとまっすぐ神経細胞が伸びてしまい、これを修正できず、結果として神経細胞の結合は正常に行われない。
 
これに対して、では他のパターンで「バッタ」を見てみると、バッタでは細胞が分化していく箇所と他の細胞との位置関係が初めから決定していて、全く迷いも無く機械的なほど正確に細胞が結合していく。
このことからバッタの細胞には、基本的な細胞の結合関係が既に書き込まれていることが分かるが、この場合細胞間の関係はその個体の経験値によるものが少ない、すなわち最初から決定的なものだと言う事になる。
 
また生物に措ける「脳」は、神経細胞を始めとする膨大な量の基礎的生体情報処理機構が更に集合された、生化学的情報処理機構と言うべきものであり、ここに特筆すべきは脳神経系の「可塑性」(かそせい)と言うものである。
神経細胞は自己組織を持ちながら、その構造を自己変化させる、いわゆる「創造」の部分を持っていて、この為一般的に高等な生物となるに従って「最初から決定されている部分」が少なくなっているのである。
 
これらは、例えば「赤核細胞」のシナプスなどには、新しい芽(スプラウト)が出る「発芽現象」が起こることや、小脳の運動学習機能では「プルキンエ細胞」に措けるシナプス伝達効率の変化が起こる事をしても、「創造」と言うものを連想するに足るものだが、このようなシナプス結合の構造、また電気的化学変化に措いては、シナプス結合部のカルシウムイオンや、たんぱく質濃度変化にその素因が求められるとされている。
 
そして生物学的には生体の神経細胞は、生後特定の期間に発達を続ける事が分かっているが、有名な実験で、例えば猫を縦縞だけしか見えない、横線の見えない部屋で生まれた直後から飼育すると、この猫は「横線が見えない猫になってしまうが、これは視覚中枢系にあるのではないかとされている、「横線」に対する認識細胞の発達が遅れるためである。
 
また人間に措いてもこうした事は同じことが言え、乳児がそのどちらかの目を怪我した場合、眼帯は片方だけではなくその両眼を覆う必要があるが、もし左眼を怪我したとしたとき左眼だけを覆うと、右目の視覚に関連する大脳左半球の視覚神経系が右半球、すなわち左眼の視覚神経系の機能を補填してしまい、左眼が見えない状態で脳が固定され、結果として左眼が見えなくなってしまうのである。
 
人間の視神経系は生後1年以内にその発達が充分完成され、また人間の言語神経系は生後10年くらいまでは成長するとされているが、こうした神経系の発達は緩やかな均一性を持っておらず、その成長には加速度と言うものが存在する。
つまり人間の視覚神経や言語神経は急速に発達する時期を持っていて、こうした時期を「臨界期」(critical period)と言うが、人間の神経系はこうした「臨界期」に措いて、その機能を外界に晒して経験させることが必要になる。
 
人間の神経系発達はつまり、持って生まれた基本的な構造と、自分以外の「外世界」に接して得られる経験的相互作用の両方に依存しなければ完成せず、持って生まれた基本構造と、外界に接して得られる経験作用は車の両輪のような関係にあり、このことから子供が「臨界期」に「外世界」に接しない状況に有れば、当然視覚神経系も言語神経系も、同じようにその充分な発達が得られないことになる。
 
生物の脳は一般的に高等とされる生物ほど、「固定されたものが少なくなる」と言う事はこうしたシステムの為に、すなわちその「可塑性」のゆえに必然とされるもののようだ。
このことは何を意味しているかと言えば、その根底には「生存」や「安定」、「幸福」と言う事実が「人間」が生まれる以前から生命の歴史の中をとうとうと流れている事を意味していないだろうか。
 
人間の構造は繊細かつ高度な機構を持っている。
しかしこうして高度な機構を持っていることが、その生存を保障する要因の全てでは無く、その時代の社会や環境に適応していかなければやはり生きていけない。
それゆえ生命の流れは、人間が生まれた時既に持っている機能に社会環境を適応させて、その脳を構成させる仕組みを人間に与えたのではないか・・・。
それが人間の「最初から決定されている部分が少ない」事の本質なのではないだろうか。
 
我々はもしかしたら自身が生まれる遥か以前から、生命の歴史によって最大限の祝福を受け、あらん限りの贈り物を両手に抱えて、生まれて来ているのかも知れない・・・。
これから生まれて来るあらゆる生命に私も祝福を送ろう・・・・・、
ようこそ地球へ・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. ようこそ地球へ~~良いですね、そう願っています。
    相当前からファミレスでは何かが「コーヒーになります」(笑い)って事でしょうが、人間は、ほったらかしにしておくと、中々人間にならないようですね。

    毎日、5歳以下の子供が、1万人以上栄養失調や単純な病気で亡くなっているようです。
    18世紀にザルツブルグで生まれた、大天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは35歳で死に、彼の4男2女の内、成人したのは2男だけで、ヨーロッパでも当時はその程度の乳児死亡率でしたが、
    現代は格段に向上して、日本では1000人当り新生児は1人、乳幼児は2人程度で、ちょっと生まれる国が悪いとこの数十倍ぐらいのようです。
    親たちも子供が、簡単に死んで行く所は、我々と違う感慨が有るかも知れませんが、皆同じように生まれてきたのですから、祝福され位は生きて欲しいものです。
    生命は進化論で繫がっていると思いますが、多分哲学はどっかで間違ったのかも知れません。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      我々は生まれてくる子供たちに「新しい事」、自分たちが為しえなかった事を為してくれのではないかと期待しますが、こうして生物学的にも、子供は親の社会を組み込んで、どちらかと言えば親の社会を軽くした形で踏襲していくもので有る事を思わねばならないのでしょうね。ですから自分が生きている、その生き方が子供たちになると考えた方が良いだろうと思います。輪廻転生はこうした業を心的に救うものでしかないと私は思います。今が未来なんだよ、今の自分しかないんだよ、それを一生懸命やらないと、例え子供でも「他」は自分の未来を作ってはくれないんだよ、と言う事を思います。日本の現代の親の姿が将来もっと劣化した形で現れるのが未来のような気がします。ですから未来を明るいものにしたければ今を真剣にやるしかないだろうと思います。親の責任は重大ですが、それを後ろから支えて行くのが国家と言うものの本当にやらねばならない事業だと思います。
      生物は戦いをやめられない、平和には生きられない、理不尽が常で有り、今日在った者は明日には失われる。だからこそせめて今一緒に生きている生き物は全て同胞で有り、敵も含めて仲間と思わねばやってられない。一緒に地球に生まれてきたのだから、共に頑張ろうな・・・・、と思うのです。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。