「火天大有」

大正12年(1923年)1月15日、華族会館・・・「大有は大いなるものあるの意にして、震動多し、ことに海中と火山脈とに起因するもの、最もその影響を受け、夏時、西南の分野、ことに驚き多し」
堂々とこの発表をしたのは小玉呑象(こだま・どんしょう)と言う易者である。
信ずる者は大いに恐れ、信ぜざる者は大いに嘲笑した・・・とあるが、この予言は的中し、大正12年、この年の9月1日関東大震災が発生し、大東京は一面焼け野原となって壊滅したのである。

このとき小玉呑象は「火天大有」と言う「卦」をたてたとされているから、火天大いにあり、と出て、夏に大地震があることを指していたのだろう、また算木を図解すれば、震央は東京を中心とする関東一円を指していたのである。
だが、この小玉呑象と言う人物、皆目謎の人物で、江戸時代に発生した高島易の創始者の直弟子とまでは分かっていても、それ以外の素性は分かっておらず、彼の名を語った偽者もかなり多く、このことが小玉呑象と言う人物を更に謎めいたものにしていることもまた事実だ。

小玉呑象は「地震の予知」と言う書物と「大地は上下に震った」と言う書籍を残しているが、彼の地震に関する知識はなかなか興味深いものがあるので、少し抜粋しておこう・・・。
地震の予知にはまず「星」を見よ・・・とあるが、何か一つ憶え易い星を常に観測し、その位置と光り具合を見ておく・・・これが地震の起こる前にはその星の位置が低く見えて、異常な光り方をすると言うのである。
くれぐれも注意しなければならないが、ここで小玉呑象が言っているのは単に「星が綺麗だ・・・」ではないことだ・・・、つまりこれには曇り空でも星が低く見えれば危ないし、綺麗ではなくて異常な・・・と言う表現だ、これを忘れないようにとある。

またその次は雷である。
雷の多い年は地震を警戒しなければいけない・・・と言っているが、俗に雷の多い年は豊作になるとも言われていて、これは大地震の生気が天に昇って雷鳴となるからだと言い伝えられているが、呑象に言わせると、陰陽の電気が電位差を起こして雷になるとしている。
関東大震災の年は8月24日から1週間にわたって毎日雷鳴がとどろき、その雷鳴も2時間から3時間も続いたが、不思議と雨は降らなかったと言う証言があり、気候的には暖冬が2年続き、豊作が続くと大地が熱気を帯びて、地震が起こるとも言っている。

更に小玉呑象は地震とは縁が深い「ナマズ」についてもこう述べている・・・ナマズはメスばかりでオスがいない、ウナギはオスばかりでメスがいない、ナマズは陰でウナギは陽の魚で、この2種は繁殖のために交接する・・・そしてナマズは水底に潜んでいるので地震の起こる前に電流を感じて暴れだす・・・と言うのである。

安政2年の江戸大地震の時には、京橋三十軒堀から江戸川にかけて、おびただしい数のナマズが浮かび上がった記録がある、また関東大地震の時には、60万のナマズが相模川や、他の川から浮かんで相模灘に流れたとされている。

そして今夜はもう1人、占いによって地震を当てた者がいるので、こちらも紹介しておこう・・・今度は占星術だが・・・1930年3月、占星術師荒井彦次郎は流星がしきりに降るのを見て、関東地方に1年以内に大地震が来ると予言し、このことは地方新聞もそれを取り上げ、評判になったが、当時の東京地震研究所はこれに対して何のコメントも出さなかった。
だが研究所所長末広恭二、所員の寺田寅彦博士、嘱託の武者金吉らは、地震計が異常な震動を記録していることを把握していて、黙って推移を見守っていたのである。

荒井はこの予言が冷めかかっていた9月、再度年内に大地震が来ることを予言、このときは銀河が異常な光り方で、しかも光が渦巻くように煌めいていたと言う。
1930年11月26日午前4時4分・・・伊豆半島大地震が発生した。
この地震では発生の後から奇怪な前触れ現象が報告されているので、これも書いておくが、大仁女学校の女学生村田清子さんは、大地震の起こる前の日、つまり11月25日の夕方、南東方向に青白い光がぱあっと走るのを目撃しているし、それより2日前の11月23日には、大磯の鈴木春夫さんと言う人がこのような報告をしている。

鈴木家の一家5人が身延鉄道に乗ってトンネルに入ったその時、夜光時計を見ようとしたところ、夜光塗料が光るはずなのに、全然光らない・・・おかしいと思っていたが、数日後この時計の夜光塗料は光り出した・・・・。

また初島へ出漁していた漁師は、大地震が起こる前、箱根から天城山へ向かって怪光が走り、ふたたび天城山から光が返ってくるのを目撃・・・不思議なことがあるものだ・・・と思っていたところへ地震が来るのである。
この怪光は東京でも観測されていて、東京地震研究所嘱託の武者金吉は、南西方向にオレンジ色の光が流れていくのを目撃している・・・がこれは少し揺れが始まっていたときのことらしい。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 母が未だ娘の頃、詰まり戦前、日本海沖大地震があって、郷里も少し被害が有ったようですが、それなりの知識は有って、余震を恐れて、当日の夜は、外で過ごした、みたいなことを、自分が子供の頃、聞かされた思い出が有ります。自分が若い頃の日本海中部沖地震では、偶々内陸から遊びに来ていた子どもたちが、津波に掠われて、十数人が犠牲になり可哀相なことをしました。
    当時も、色々な前兆とかについての言いつたえも有ったようです。

    関東大震災の時は、横須賀鎮守府も、遼東半島沖で演習中の、帝国海軍第1艦隊も、救援物資を運んで東京に急行したようです。

    今も多分、自衛隊を始め、政府機関が、来る地震に対して、救援計画を持っているとは思いますが、ま、平たく言えば外野がうるさくて、国民的な議論が成されていないのは、なんだかなあ、です。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      司馬遼太郎の「坂の上の雲」のナレーションにも有るように、明治から大正の日本は「国家」と言うキーワードに国民も行政も楽天的なニュアンスに包まれます。その結果がどんな子細な事でも民衆の声に真剣に取り組もうとする風土が生まれ、例えば東京大学などでも民衆の疑問に答える研究や調査を行っています。しかし現代のそれは権威主義で民衆とは隔絶された文字通り「雲の上」の存在となっていて、しかも何の役にも立っていない。これからの日本に横たわっているものは「関東・東海」の巨大地震で、それが終われば東南海、南海地震と言うとてつもなく大きな「災害」です。間違いなくやって来るこれらの災害を防御する事は出来ない。だとしたら今のうちに被害が少なくなる事をやっておかねばなりません。首都や皇居の一時移転や企業の情報やシステムの分散、政府機能の分散に市場システムの分散、或いは人口の地域統制も行っておかねばならないかも知れません。そしてこれが意外と地方再生のキーワードだったりするかも知れません。解釈でどうにでもなる日本国憲法や安保条約などより日本は先にやらねばならない事が沢山ありますが、参議院選挙は随分虚しいですね・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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