「あえの風」

古くは万葉集に残された大友家持の歌に源を持つ「あゆの風」とも言われ、民族学者の柳田国夫に拠れば海から陸に向かって吹く風と解された「あえの風」・・・。

日本海側では比較的多く使われていた「あえの風」の解釈はその地域ごとに異なり、そも大友家持の「あゆの風」は嵐の始まりを意味するが、一般的な東北の風「やませ」とは異なりながら東北の風と解された理由は、「間の風」をすべて「あえの風」と考えたからである。

日本海側で海から吹く風は「東」にはならない。

日本海側の東は必ず陸地で有り、海から吹く風は西か北のどちらかになり、この点で柳田国夫は極めて現象に忠実な解釈をしていたと言うべきだが、例えば平安京では禍は全て艮(うしとら)の方向、「東北」と概念された事から、後年「禍」と東北が同義に概念されるようになって行った背景と似ている。

大友家持の「あゆの風」はこの意味で禍々しい風の意味を呈していたが、これがやがて北陸(越)で一般化して行く過程で「良くない風」「嵐」と解釈されるようになり、更に大衆化する過程ではいつもと違う風の事をすべて「あえの風」「あいの風」と表現するようになったと言うのが、その現実だろう。

それゆえ「あえの風」は地域ごとに、厳密には個人々々に拠って微妙に異なり、今日では観光客を呼ぶ為に「愛の風」と言う解釈まで出てきているが、大友家持にしても歌を詠んだ時の真意は「よろしくない風が吹いているな・・・」と言う程度のもので、決して東北の風とは言っていない。

良くない風は東北の風と言う風潮が、大友家持が歌に詠んだ風を東北にしてしまったと言う事だ。

能登に伝承する「あえのこと神事」でも、これは「間」(あい)を意味し、つまりは何かの間、田から神が山に帰ってしまう間の事を言い、この時期に何か変わった事が起こると、それは山の神(田の神)が自身を忘れるなと言う意味で生じせしむるもの、言い換えれば「神を忘れるな」の意味で解釈された経緯を持つ。

その季節には通常ではない方向の風は「神の風」な訳であり、これには禍福両方が存在し、歳時記の「あえの風」は夏の季語だが能登では夏には南、南西の風が多く、北もしくは東の風は温度が下がる。

しかし夏の北、東の風が嵐の前の風かと言うと、そうでもない。

むしろ気候が荒れるときは南西、西の風が強まるのである。

更に能登の冬は北、東の風の日が多いが、ここでも天候が荒れてくる時は南西、西の風であり、これも「あえの風」と呼ぶ地域や人が存在していた。

この他に輪島では「ぼんぼろ風」と言う春の限定された時期を指す言葉が存在していたが、これは塗師屋、漆器職人の専門用語で、春の田に水が張られ始める時期に吹く南の乾燥した温かい風の事を言い、この乾燥した風は漆の乾燥を遅らせ、木地に歪みを生じさせる事から、警戒しなければならない風、時期を指していた。

「ぼんぼろ風」をまたぐ仕事は納めを長く取れ・・・・。

昔の職人はこの時期に漆の乾燥が遅れるから、1週間ほど長く納期を取れと後出達に言っていたのだが、これすらも研ぎをやっている女衆の部屋へ行けば「あえの風」と呼ばれ、更には下ネタとして「愛の風や~」、つまりは発情期や~と言う話になっていたのである・・・。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 万葉歌人、家持の父、旅人は自分が好きな歌人の1人ですが、酒、望郷、老いその他、現代人(?)の自分が読んでもまったく違和感のない、人生の共感が有ります。
    学校で早くから英語を教えるより、万葉集を教えた方がよっぽどマシだと思っている保守反動主義者です(笑い)
    二十代の頃だったか、八郎潟で釣りを始めたら直ぐ、やませが吹いてきて、まったく釣れず、半袖と言うこともあり、寒ささえ感じ、車の暖房を付けて温まりながら逃げ帰ったことが有ります。

    観光で、あえのこと料理を食べたことが有ります。御陣乗太鼓も見学しました。
    我が郷里では、田植えの後にさなぶり(早苗饗、と書くようです)が有って田の神を送る祭りが有るのですが、百姓でもなく、友だちから話を聞くと、そんなご馳走食べたかった、という思い出が有ります。
    冬には、なまはげ、という鬼が左手に手桶、右手に出刃包丁を持って山から下りてきて、村人を苛める(笑い)のですが、2~30年前から、冬仕事だけでは生活苦らしく、御陣乗太鼓よろしく、太鼓も叩くようになって、観光客にサービス。
    伝統も変遷して何も知らぬ観光客は良い面の皮、でも、まあ、良いか(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      旅人はどちらかと言うと今で言う軍人、政治家だったように私は認識しているのですが、それゆえにどこかで大陸の覇者が詠むような心象風景を感じるものが有り、事に酒に関して言えば曹操の歌に共通するものを思った記憶が有ります(間違っているかも知れませんが・笑)。4000年前のシュメールでも、3000年前の周王室でも、2000年前の曹操も然り、人の世の営みとはいにしえより何も変わらないのだな・・・と言う事を思います。
      そして現在、こうした旅人の子家持が幅広く詠んだ歌に端を発し、やがてとてもいい加減な使い方をされて行った「あえの風」なども、観光ガイドなどが解説すると慇懃な事になり、これはそれらしいけど何かが狭くて解っていない。人の世はそう簡単に白黒が付けられるものではなく、大衆のいい加減さの中にも真実が見え隠れする。いや真実そのものが何かの現実や風景の曲解のようにすら思えます。
      こうしたものの解釈は適当で良いのではないかと言う思いがします。
      能登の御陣乗太鼓も、上杉謙信が云々と言う話にはなっていますが、こうした貧しい沿岸地域で流行った事は「海賊」、しかも難破した船を村人全員で狙うのですが、「ござった」(来た)と言う言葉や、御陣乗太鼓発祥の地をいまだに「怖い」と表現する古い漁師町の古老の在り様などに鑑みるなら、あまり深く追及すると観光にはそぐわない事になるのかも知れません(笑)きっと現実はとても厳しくて、そして観光用の話は雄大で優しい、過ぎ去った事の真実よりこうした時代を得ていい加減になって行く事、それが良いところなのだろうと言う気がします。
      昨日の能登は朝方西風のやませでした(笑)

現在コメントは受け付けていません。