「過ぎたるは猶」

私が仕事の上で、いや仕事以上に気を付けている事は「人の領域を侵さない」と言うものだが、これは言われた事しかしないと言う意味と同義ではない。

求められた以上をしない事は実は大変難しい事で、人間のする事は必ず他者から求められた事に不足するか、過ぎるかのどちらになる。

輪島塗の仕事の形態はまずエンドユーザーが存在し、そこへ情報を提供する小売店が存在し、小売店に商品を提供する問屋、その問屋の求めに応じて商品をプロデュースする「塗師屋」が在り、この塗師屋の求めに応じて職人が必要な技術を提供する形になっていて、現在ではこの内「問屋」が機能を失い始め、それに伴って巨大化していた塗師屋が小さく分散、ネット社会になってからはデパートやギャラリーと言った小売店までも衰退しているが、技術職自身がエンドユーザーでない限り、職人の立場は決まっている。

CEO「最高経営責任者」の概念は広範囲に及ぶが、その責任を担保しているものは資金決済であり、この資金決済権ゆえに最高経営責任者なのである。

それゆえ会議等で意見を求められれば発言しても、それ以上の現状に対する発言を担保するものは、会社と言う組織全体の利益と言う事になるが、自身が一部のセクションの情報しか責任を負えない者は全体を鳥瞰する事が出来ない。

CEOと部分セクション担当者では見ている情報のスケールが違うため、ここで発言できる事は自身が措かれているセクションの中でできる最大限の努力と言う事になる。

良く一般社員も会社の経営を視野に入れて仕事をしてくださいと言う訓示が出される事があるが、では会社経営不振の要因が最高責任者に在るとしたら、その責任者は自身をそこまで冷徹に顧みる事が出来るだろうか、否、それは有り得ない。

社員はあくまでも仕事を通して会社の利益に貢献するので有って、経営は経営に拠って利益を得ている者の仕事なのであり、これを一致させてしまうと、社員は自己矛盾に陥り、経営者はこうした社員の在り様を越権行為としか見れなくなる。

職人は自身にどれだけの高い能力が有ろうが、自身の身分を弁えなければ傲慢な事になる。

すなわち塗師屋や問屋、小売店の懐具合まで考え、またこのデザインの方が優れていると思っても、それが必要とされなければこれを視野に入れた配慮は上司や経営者の領域を侵す事になる。

求められた技術の中で最高の努力をし、納期を守り、良い仕事を安く提供できる努力を行わねばならないが、この努力は無限に続くものであり限界が無い。

この限界の無い者が経営にまで配慮したり、例えその製品企画が失敗に終わるもので有っても、これに意見するのは過ぎた行為となる。

技術職と経営は相反する命題を追う者同士で有り、ここで技術職が経営を考える事は自己矛盾を招き、同様に経営者が技術に首を突っ込むと同じように自己矛盾を迎え、やがてそのシステム全体が崩壊を迎える。

職人は必要とされる事の中で最大限の努力をし、その技術をして商品が市場を満たし、関わる者すべてが利益を得る手助けとなり、しっかり税を納める事をして自身最大の社会貢献と言える。

単価が出ないからと仕事を断り、そして地域の事や業界の事を案じるなどもっての他である。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 事を為すの将に要諦ですね。
    求める範囲が山の天気のように、気分次第で目まぐるしく変わって恬としている人の下で働いたことが有ります(笑い)
    どちらかというと自己完結型の行動を取り勝ちなので、肝胆相照らす程だと偶にちょいと情報交換するだけで良いのですが、安く使おうと思っている人には、多分何を考えて何をしているか判りにくいでしょう。
    求める範囲も場合によって変化はやむなしで、広がっても良いですが、平常になったら旧に復して、何事も無かったようにしたいと思っておりました。
    内面的には、胸が張り裂けそうでも、関係のない、場合によっては深い関係でも相手に重荷を与えないように、ニコニコまでは行かなくとも、泰然自若たらんとしたかも知れません。

    今肩書きが屋上屋を架して、そんなに要らんだろう、って言うのが多いですが、中国語では、総経理で分かり易い。(笑い)
    英語と米語でも会社の成り立ちの問題もあって、一般的に言えば、アメリカの方が価値が低いのが多くて、Vice President 何て、副大統領の場合は兎も角、会社では、課長ぐらいに思った方が良い場合が多いと思います。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、孫子のこの言葉は有名ですが、一般的にはこの言葉が浅く理解されているように思います。つまりは褒め過ぎや勝ち過ぎはいけないくらいに考えられているかも知れませんが、元々孫武の背景には周易が深く根差していて、例えば善で有れば過ぎたる事もまた許される、或いは善ならば良いと考える事も薄く否定されているように思います。考え方の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」も存在し、相手の立場に立って物事を考える事は良いが口にしてはならない事も有る。この現実的な、もっと言えば損得勘定のような考え方の背景にも「大善」が存在する。損得勘定も立派な人の世の善であり、こうしたものと恩賞を求めない潔さもまた同じ人の営みである事を思います。その上で自身の分を弁える事の大切さ、例えそれが結果的に良くない事になっても、人間の営みは結果の先に更に結果が存在し、これらが連続する。一時の眼前に広がる正義や善が正しいとは限らない。これを畏れれば自分の分をはみ出す善は或いは善とはならないかも知れない・・・。
      輪島塗でも安い単価の仕事が来たとき、職人ならそれを何とかしてやる事をまず考えるべきで、それもせずに門前払いし、崇高な地域の為の活動や、業界の問題を語り、その崇高さゆえに安い仕事を甘く見る。しかし安かろう高かろうが仕事は仕事で、とにかく仕事をして世に製品を出して行かねばどんな製品も売り様がない。努力して仕事をすることが一番近道であるにも拘らず、遠くの崇高な景色ばかり見つめて嘆く、私は自身の内にこうした事のないようにと思っています。
      しかし、流石です・・・。
      私の投げた光がまるで鏡の反射光のように返って来る・・・。
      いよいよハシビロコウ様とは一体何者なのか・・・と言う思いを深くさせられました。

      コメント、有り難うございました。

  2. 何か、お話しが出来ているようで良かったです。
    ちょっと誉め過ぎで~~過ぎたるはなお・・(笑い)。
    錆掛かった銅鏡も貴方の強い光が当たれば、鈍い反射が有ると言うことかも知れません。
    曹操も課税当局もついでに医者も、当方を見て、精々良くて『ケイロク』か、と呟きそうです、当たっている感じですが(笑い)
    あ、それから、結構人に道を尋ねられる機会が多い気がしていますが、人畜無害で暇そうに見えるのかも知れません。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      世の中の人々はどうしても突出したもの、光ったものに目が行き易いですが、その実現実に今を動かしているものは黙っている者、普通の事を普通に行っている多くの光らない者の手に拠ります。
      私はそうしたものが一番好きです。
      曹操の鶏肋は意味が深いですね・・・。
      人々から絶賛される方法は容易かも知れませんが、鶏肋になるにはジワジワとした日々の努力や姿勢が大切になるかも知れません。鶏肋は人として一番良い立ち位置ではないかと思います。そしてこれを過ぎた解釈をすると切り殺される・・・有名な小さな賢さの傲慢と愚かさの場面でしたね・・・。
      実は私もよく人に道を聞かれるのですが、それ以上に多いのは宗教の勧誘にキャッチセールスで、何人かで歩いていても必ず私が声をかけられます。知人曰く「騙し易そうな顔をしているからだ・・・」との事。
      今日はイギリスのEU離脱をめぐる国民投票の結果が出る日でしたね・・・。
      いろいろ忙しくて断言はできませんがヤフーの方にも経済の話など書けたら良いなとも思っています。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。