「雇用の一線」

昭和50年(1975年)には販売も含めると、毎年70名前後の新規就業者が存在した輪島塗の世界だが、これが10年後には半減し、更に10年後の1995年には輪島塗関係の求人がほぼ0になってしまっていた。

しかし一方でバブル経済が崩壊した日本の社会では、それまでの金融システムの崩壊から価値観の迷走が発生し、職人の世界に憧れる傾向が出てくる事になり、この傾向は特に首都圏近郊の若い女性に多かった。

「何か確かなもの」を求めていたのかも知れないが、1995年前後には輪島塗関係の求人が全く無いにも関わらず、石川県外の弟子修業希望者が増大する事になる。

そしてこうした環境の中で発生した状況が雇用の逆流と言うものだった。

つまりは「どうしても輪島塗の職人になりたいから、給料無しでも修行させてください」と言う者が発生して来たのであり、この環境は輪島塗の親方の感覚を蝕(むしば)んで行った。

「自分は善意で教えてやっている」と言う形が蔓延してきたので有り、ここでは徒弟制度が本来持っている「若年者を育てる」感覚が失われ、親方はその責任を放棄し乍只の労働益を得るようになり、しかもこの状態が当たり前になってしまったのである。

賃金の支払いの無い雇用主は基本的に権威が無いものだが、ここで親方が権威を維持する方法が必要以上の自己価値の広言だった訳である。

すなわち輪島塗は素晴らしいものなんだ、その輪島塗でも家(自分)がやっている輪島塗こそ最高なんだ、と言う言い方が出てくるのであり、ここからまた更に景気が悪くなって売り上げが落ちるとどうなるかと言うと、環境が厳しい程、困難な程価値が有るとする価値反転性の競合が始まる訳である。

一種のカルトだが、厳しい程、苦しい程その道が崇高になって行く事になり、この中で肥太った親方と痩せた若い女性の弟子の組み合わせが、あちこちで見られるようになって行き、こうした親方の在り様は権威を担保するものとして、更に既存の小さな権威にすがって行く傾向を生じせしめ、嫌が上でも実質の伴わない伝統権威の株を押し上げて行った。

またこうした既存権威を得にくい親方などは「婦人画報」などを始めとする雑誌や報道の権威を頼るようになり、為に実際は周落に有ったマスメディアも権威が上がってくるが、これなどはまさに価値反転性の競合そのものだったと言える。

ちなみに雇用制度の法体系の中では、賃金を支払わなければ労災保険の加入規定から外れる事になるので、弟子を只で雇用している親方には労災保険の加入義務が免責されるが、只では可愛そうだと思って僅かでも賃金を支払うと、それに対して法的根拠を持った労災加入義務が発生してきて、労災に加入義務が発生すると、当時の職業安定所から失業保険の加入促進が始まり、最終的には最低賃金を払うか雇用を断念するかと言う形になった。

おかしな話だが、若い労働力を只で雇用している者には労災加入義務が無く、善意で少しでもと思って僅かな金銭でも支払うと、それによって雇用継続が困難な状況が発生したのであり、細かい法はグレーゾーンにいる者まで闇に突き落とす事になる、今日の日本の在り様は1995年にはもう始まっていたのである。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「肥太った親方と痩せた若い女性の弟子の組み合わせ」何と解りやすい(笑い)
    きっと全国で似たような現象が起きたのでしょう。

    今の産業では、労働者の犠牲の上に成り立っているような所が沢山有るようですね。
    経営者は金満家で、内部留保は潤沢なのに、労働者は家も買えないばかりか、健康さえも害される。

    近隣に人気の有る羊羹屋さんが有るのですが、そこの当主のお婆さんの話をラジオで聞いたことが有って、従業員が食べて行けて、お客さんが喜んでくれればそれだけでよい、と言い
    一本¥700ぐらいのを、別の有名店では¥2000ぐらいですが、という質問には、
    昔から贔屓にしてくれている人が買えなくなるし・・事業化すれば、暫くは拡大するだろうが、お客さんの喜びが伝わらないと、いずれは仕事ができなくなる、みたいなことを10年ぐらい前に言っていました。並んでいる人には大変申し訳ない、とも仰っておりました。
    今も当時のままのようです。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      それが経営なのか生活なのかと言う事の差なのでしょうね。
      そして経営と言うものはやはり「覇」なのだろうと思います。
      それゆえ多くの犠牲を強いて何かを為していくのでしょうが、例えば古代王朝などは国家の概念を「人口」に置いていますから、基本的に民衆の暮らしに寄与する事が「覇」の最終目標、大義となるのだろうと思います。しかしこうした意識の曖昧な者が経営、「覇」をやると大義は公共と言いながら、実は劣化し歪んだ生活、見栄や自己主張という人間の暗部が綺麗な言葉に隠されて出てくるのだろうと思います。
      みんなが何とか食べていければ良い、これすらも完全に実現できた国家は無く、その時代も無かった。せめて自分と自分が知る人だけでも、そう有って欲しいものだと思います。

      コメント、有り難うございました。

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