「君、死んじゃいけないよ」・1

およそ人を殺さねばならない戦争に措いて、そこに心を説く者など詭弁以外の何者であろうか、いたいげな若者の命を我が物とし、彼らを戦に駆り立てさせねばならないとしたら、指揮官がそこに思うことは「すまない」と思う贖罪の思いしかない。また精神や心構えで勝てる戦いなどあろうはずもない。
そこにあるのは緻密な作戦と行動力であり、精神論などは道を誤るもとだ・・・。
太平洋戦争のさなか、日本海軍戦術の経典とも言える「海戦要務令」をゴミ箱に棄てた男がいた。

またアメリカ太平洋艦隊司令長官・チェスター・ニミッツは太平洋戦争が終わってから、この男についてこう語っている。
勝った指揮官は名将で、負けた指揮官が愚将だと思うのは浅はかなことだ・・・、指揮官の成果はむしろ彼が持つ可能性にある。
敗将と言えども彼に可能性が認められる限り名将である。
彼の場合は確かにその記録は敗北に次ぐ敗北だが、その敗北の中に恐るべき闘志と知恵、そして可能性が秘められている。
おそらく彼の部下は彼の下で働くのを誇りに思ったに違いない・・・。

彼・・・、今夜は日本海軍最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎の話をしてみたいと思う。
小沢は宮崎県高鍋町の出身だが、身長が高く、がっちりした体つき、その上鬼瓦を思わせるいかつい面構え、当然喧嘩も強く県立宮崎中学校に在籍していた頃には校長夫人の人力車をひっくり返し、また不良青年を投げ飛ばして怪我を負わせるなどの大変な不良で、ついに宮崎中学を退学させられるが、これがもとで上京して私立成城中学校へ入学、その後海軍兵学校へと進むが、成績は179人中45番と言う成績で、これは当時海軍の指揮官クラスだと秀才か天才と言われるほどの成績者でなければ、その職務に就くことができなかったことを考えると、この時点で小沢が将来連合艦隊司令長官の要職に就くなどは、誰も想像すらできないことだった。

また小沢は海軍大尉のときに、同じ故郷で名家の娘「森石蕗」(もり・つわ)と結婚しているが、そのとき他にも縁談が来ていて、仕方なくテーブルの上に箸を立てて、倒れた方向が森石蕗だった・・・と言う話は自伝でも書いているが、こうした話やその豪胆な風貌から、どちらかと言えば緻密な計画の人物と言うより、荒波にもまれる海の男を連想しがちだが、ところがどうしてこの小沢と言う男、慎重な配慮と高い教養、そしてリベラルな感覚の持ち主で、およそ外観とは似つかわしくない意外な人物だったのである。

海軍では海上勤務、つまり船の艦長職を勤め続ける経歴を「車引き」と称し、陸軍同様に中央幕僚や行政などのホワイトカラーからすれば、出世コースから外れていく傾向にあったが、小沢はその海上勤務を歴任し、この経歴の中で戦術や指揮官としての鍛錬を積んで行ったようだ、つまり彼を鍛えたのは教科書ではなく、実務そのもの、実戦であったと言うべきだろう。
また小沢の戦歴は確かにチェスター・ニミッツが言うように敗北に次ぐ敗北だが、これはどう言うことかと言うと、小沢は常に際どい場面で持てる能力のぎりぎりで戦っていたからだ、つまりもはや右に転んでも左へ転んでも・・・の中で死力を尽くしているからであり、例えばこれを医療に例えるなら近代的な設備が整った病院のアメリカに対し、片方で小沢は設備も薬も無い未開の土地で、高度な技術を要するオペをしているようなものであり、この能力に対する日本と言う国家そのものの力の無さをニミッツは惜しんだのである。

昭和19年6月、「皇国ノ興廃ハコノ一戦ニアリ」連合艦隊司令長官・豊田副武大将の打電で迎えた連合艦隊最後の戦い「マリアナ沖海戦」、この作戦で小沢は第3艦隊と第2艦隊を合わせた、第1機動艦隊司令長官となっていたが、アメリカ軍のサイパン上陸を支援するアメリカ第58機動部隊の殲滅を目的として小沢が考えた戦法は「アウト・レインジ戦法」、つまり念入りな偵察活動で敵空母を先に見つけ、そこから発進してもアメリカ飛行部隊の航続飛行距離が届かない地点に日本の空母を待機させ、次いで航続距離の長い日本の飛行部隊が発進し、まず敵空母の甲板を撃破して敵の戦闘機が離発着できないようにした後、敵艦隊を撃滅しようと言うものだ。

何となく自分に都合の良い作戦のように思えるが、しかしこの作戦はどちらかと言えば一発勝負の母艦航空戦では、刀を抜いた一騎打ちの対戦が、紙一重のところで相手の刀をかわし、自身の刀を相手に食い込ませんとするに似たものがあり、作戦としても非常に理にかなったものだった。

だが6月18日午後3時、小沢部隊の前方380マイルの海上で、敵空母部隊3群を偵察活動で確認した小沢は、第3航空戦隊、大林少将の全機出撃準備に対して、第1機動艦隊所属航空部隊の「発進中止」を指令する。
その理由は簡単なことだった、第1機動艦隊の飛行パイロットは、この時点では訓練が不十分で夜間に帰艦しても着艦が殆ど無理だと思われたからである。
午後3時・・・、この時間に発進すればおそらくアメリカ艦隊の上空に到着するのは夕方だろう、そして帰艦は夜になってしまう・・・、それでは大方のパイロットが船に激突するか海上に落ちてしまう・・・。

これがニミッツの言う「国家の疲弊」であり、現実にこの時点で攻撃をしていれば、アメリカ艦隊の打撃は計り知れないものがあったが、もともと部下思いの小沢はこれをしなかった・・・、そしてこの夜もたった1機帰路を見失い、偵察から帰ってこない偵察機のために、敵に発見される危険を押して、サーチライトを点燈しながら帰りを待ち続けていた。

そして翌6月19日、快晴の空を第1機動艦隊の戦闘機は出撃していったが、その結果はすでにご存知の通り「マリアナの七面鳥撃ち」とアメリカが称した如く、一方的に攻撃され撃滅させられ、連合艦隊は空母3隻をを失って敗退、しかし小沢は打撃を受けながらも最後まで戦い続け、昭和19年10月のレイテ海戦では残存空母を率いておとりになり、ハルゼー機動部隊を見事にひきつけて栗田艦隊を助けるのである。

7月8日、サイパン陥落の前日の夜、マタンサ海岸にはアメリカ軍の攻撃から命からがら逃げてきた日本人4000人ほどが集まったが、生き残った将校、杖にすがった傷病兵、軍属、一般市民たちだった。
9人の子どもを連れ、日本人と行動をともにしたきたサイパン島民のエアリス・サブロンは疲れ果て、道端でうずくまっていたが、その横で小銃や竹やりを手にした12人の日本人女性が顔に泥を塗っていた。
ぼんやり彼女たちを眺めるサブロン、それに気づいた彼女たちの中の1人は、サブロンに近づき「子どもを抱かせて欲しい」と頼んだ。
彼女は1番幼い女の子を抱き上げ、月明かりでその顔を確かめると、サブロンに女の子を手渡してこう言う。
「子どもを大事にしてね・・・」

7月9日、サイパンの日本人に残された道は男も女もみな「バンザイ突撃」か「自決」、つまり「死」以外の選択はなかったのである。

(2に続く・・・)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 山下大将は、後日マレー作戦でのパーシバル司令官との降伏会議の創作ニュース映像を見て、かなり不本意だったようです。
    双方の通訳が力不足で、意志の疎通が余り上手くできなかったと言う事情もありますが、大衆迎合者の詰まりは日和見主義者の製作者によって、事実と違って、高飛車に描かれていたからです。
    小澤中将とは肝胆相照らしたと思いますが、東条大将とは馬が合わなかったようで、結局フィリピンで戦犯判決を受け絞首刑、自分が責任を取らなければ誰が取る、と言う事で一切弁明をしないで死んで行きましたが、平服で刑が執行された事に関しては、セルヒオ・オスメニア大統領の事は、内心恨んでいたと思います。
    山下奉文大将と実兄の軍医少将、山下奉表(ともよし)とその戦死した息子の真一軍医大尉の墓が近所に有りますので、又近日中に行ってみようかと思います。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      確かに山下奉文軍司令は日本国民向けの宣伝に使われてしまった事から、どうしてもイメージが先行し、彼の人となりは今でも誤解されている部分が多いですね。日本はジュネーブ条約に批准していませんでしたから、本来捕虜の地位は保証されない。しかし彼は方面軍の統括者としてジュネーブ協約に関係なく捕虜の地位を承認している。また小沢指揮官とは人間としての信頼関係で結ばれていた感が有りますね。お盆の頃に東条英機の記事を掲載しようと思いますが、東条は孤独な人だったし、理解者も少なく、特に統帥権の統合と言う明治以来の大原則を崩してしまった事に付いては軍内部でも批判的な意見が多かったと言われています。
      本当は戦争が無ければ温厚で心豊かな、そして部下思いの方々だった・・・。
      戦争と言うものが人生を横切ってしまった彼らを思う時、私はこの平和な世に彼らの100分の1の努力もしておらず、1000分の1の忍耐にも及ばない事を恥ずかしく思います。

      コメント、有り難うございました。

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