「火刑と火葬」

中世ヨーロッパ、互いに王権が勢力を持ってきたイギリスとフランス、この両国の発展はやがて激突へと繋がっていく、百年戦争(1337~1453)の勃発である。
この戦争の末期、フランス王チャールズ7世はその要衝オルレアンをイギリス軍に包囲され、フランスは絶対絶命の危機に瀕した。

このとき現れたのが17歳の少女、ジャンヌ・ダルク(1412~31)である。
ジャンヌは神から受けた啓示を信じ、チャールズ7世に会見、その後軍を率いて1429年オルレアンの包囲を破り、奇跡的勝利をおさめ、フランスを救った。
だがその後、聖女とあがめられたジャンヌの人気はフランス国内に留まらず、イギリスにまで広がっていき、これを脅威と感じたフランス王、イギリス王は相互に取引し、ジャンヌはこの裏切りによってイギリスに捕らえられた。

ジャンヌが見た神の啓示は真実だったのか、あるいは彼女自身の強い信仰がその信仰の証として、望むものを見せたのかは分からない・・・がこうして捕らえられたジャンヌはイギリスで行われた宗教裁判でも、罪を認めれば命は助けるという条件を拒否し、薪が積まれた上の太い杭にくくりつけられ、業火に焼かれていった。
ジャンヌ19歳のことである。
中世ヨーロッパではこうした不思議な力を持つ者、怪しげな振る舞いの者は「魔女」として火あぶりの刑に処せられたが、その影響だろうか、どうもアメリカ、ヨーロッパでは死後、火葬にされることを嫌う傾向があり、極端な考えでは火葬は「処罰」に相当すると考えている者までいるくらいだ。

だが、キリスト教、聖書の記載には特に火葬を禁止していない。
創世記23章9節、「彼がマクぺラの洞窟を私に譲ってくれるよう・・・埋葬地として所有させてくれるよう・・・」
マタイ27章60節「彼が岩塊にくり抜いたもので・・・イエスの墓」のように聖書中ではどうも火葬せず埋葬するのが一般的に見えるが、モーセの律法ではヤハウェの司祭の娘が売春婦となった、つまりヤハウェを裏切ったときは処刑された後、火の中で焼かれることになっていたし(レビ記21章9節)、同じようにヨショア(7章25節)でも「彼らを火で焼きました」と言う言葉が出てくる。

これらのことからどうも死後火で焼かれるということは処罰、もしくはとても不名誉なことのように思われがちだが、この延長線上に中世の「火あぶり」や死後になって罪を問われた司祭や法王の遺骨を焼くなどのことがあったようだ。
しかしサムエル記第一31章2節、8章13節ではフェリスティア人がイスラエルのサウル王と3人の息子を殺して首を切り、城壁にくくりつけた場面で、それを見たイスラエル人が、その遺体を城壁から外して外で焼き、骨を葬った・・・とある。

サウルと言う王は邪悪な人で、こうしたことから一見すると火で焼いたことが処罰のようにも思えるが、このとき一緒に火葬されたのがサウルの息子の1人ヨナタンで、彼は善良な人であり、ダビデ王の親友でもあったこと、そしてこうしたヤベシュ・ギレアデのイスラエル人たちがした「火葬」にダビデ王は感謝し褒め称えたとある(サムエル記第二2章4~6節)事から、聖書中では特に「火葬」を悪い物とは考えていないことが分かる。

実例で処罰として「火葬」が多すぎること、中世の間違った認識から起こった「火あぶり」などの刑に、西洋では「火葬」イコール処罰と言う感覚があるようだが、「火葬」イコール処罰や不名誉は間違った認識である
だがここで1つ疑問が起こってくる。
では神が善良な人とそうでない人をより分ける「審判の日」にはハデス(冥府)からも救済がなされることになっているが、火葬されて死体が無くなってしまった人はどう救済されるのだろうか。

「審判の日」に救済された者は「永遠の生命」とあり、決して「永遠の魂」ではない。
だとしたら救済された生命と言う表現と、魂の差は何か、それはどうも「肉体がある」かないかと言うことらしく、こうした観点に立つと、例え死んで腐っていても埋葬には復活のリアリティーがあるが、火葬となると復活のリアリティーが薄い気がするがどうだろうか・・・。
もしかしたらこうした背景でもキリスト教を信仰する人の「火葬」嫌いがあるのではないだろうか。

聖書伝道の書9章5節10節、ヨハネ5章28節29節には、ヤハウェが現在眠りについている沢山の人を蘇らせることを明確に示していて、啓示20章13節、黙示録は「海はその中の死者を出し、死とハデスもその中の死者を出した・・・・」
つまり「審判の日」には例え肉体があろう、無かろうとも、どこにいても生きていても死んでいても善良な者は肉体を持って復活し、永遠の生命で幸せに暮らせると言うことのようである。

日本におけるキリスト教原理主義の人達は「火葬」は認めているが、人によっては埋葬場所「墓」を先祖代々のあの普通の墓では偶像崇拝になるとして、火葬時に骨まで残さず焼却して欲しいとしている者や、墓を別に作る者がいるそうだ。
ちなみにここで出てきたハデスだが、地獄と訳している場合もあるが、厳密には地獄の概念ではなく、魂の安置所のようなものだと思ったほうが近く、この鍵を持っているのはキリストだ、地獄はこうした表現が適切かどうかは疑問だがインフェルノと呼ばれている。

最後に魔女として火で焼かれたジャンヌ・ダルク・・・現在はその名誉が回復されている。

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T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 30年位前に、パキスタン人がアパートで亡くなって、警察と相談して火葬にして遺族の到着を待った、と言うニュースが有りました。家族は大激怒、大狼狽、最後の審判を受ける身体が無い。
    十数年前は不足していましたが、最近は遺言で献体する方も増えました。葬儀の仕方は遺族も納得していると信じますが。
    日本は先進国では比較的例外的に死刑が存続していますが、殺人事件が死刑を廃止した国の何十分の一。
    人類が少し文明を持ち始めると、葬儀らしき物が発生したようです。
    民族、宗教、時代によって遺体への考えは変遷して止まずですね。自分は死んだらどうでもいいですが、時と土地の習慣によって質素にが唯一の望みです(笑い)。
    先日山下奉文大将のお墓に行きましたが、確か遺体は行方不明なので、遺骨は墓所には無いはずです。そんな事とは関係なく、彼の高邁な遺志は、今の政治家や学者、評論家に読ませてやりたい、と思っております。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      キリスト教文化圏と仏教文化圏の決定的な差は「魂」に対する扱いなのでしょうね。
      キリスト教は魂に重点が置かれていない反面肉体が重要性を持ち、日本などは「魂」の概念が拡大している事から肉体よりも魂に重点が置かれている。しかし日本でも古来は土葬が一般的で、火葬を流行らせたのは空海だとも言われています。どちらにしても死んで尚且つ自身を自身に在らしめたいと願う、或いは「死」に対する恐れから葬儀が出現し、実はネアンデルタール人の頃から既に埋葬、或いは葬儀が存在したとも言われています。「死」を惨めなものにするなら人間は「死」を恐れねばならず、「死」を崇高なものにするなら人間は「死」を恐れない。これらはどちらも大切な事ですが、行き過ぎると、また人為的に使われると民族全体の不幸を招く・・・。
      今日の自爆テロに鑑みるなら、日本人はそれを憎まねばならない反面、そこから何かを知らねばならない部分も有るように思います。
      太平洋戦争の日本軍には功罪ともに存在し、今の社会はその罪のみを見ていますが、山下奉文軍司令を初めとして、今の日本人が大切にしなければならない事もたくさんある。
      こうした事を思い乍ら今回の参議院選挙を見ていると、余りにも虚しいですね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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