「グラジオラス・其の二」

田に水が行き渡ったかを確かめる為、畔(あぜ)を歩いていると、時々1本、2本と細い竹を切った棒が刺さっている事が有り、これは一体何だろうと思っていたが、その答えは意外に早く判明する。

畔の草を刈っていると、その棒の付近で必ず草刈機の歯が石に当たり、カチーンとはじかれるので有る。

5年前に死んだ母が刺した目印だった。

死して尚、子を思うか・・・・、いやそうではあるまい。

母は自分が草刈りをしていて、いつもそこで草刈機の歯が石に当たるので、目印をしただけだろう・・・。

また山に近い田の土手には、毎年3本だけ薄いピンクのグラジオラスが必ず咲き、一面緑の中でそこだけが何故か人の匂い、グラジオラスが好きだった母の面影がするのだが、これもきっと母が余った球根を土手に植えたもので、それは後年自身が命を失う事を思い、何かを痕跡を残したいと願ったものでは無かっただろう。

だがいつかの時、同じ道を通って来る者がそこに親が子を思う気持ち、或いは既に失われた者の面影を見るは、間違いにして正しき事のように思う。

目印をした本人は自身の為に、自分がそれを楽しむ為に為した事を、後年同じ道を通った者がこれを自分に繋げて思う。

この事は「天意」に同じであり、真実の以前の一致で有るのかも知れない。

田んぼの畔に刺さった竹の棒、頼みもしないのに毎年咲く土手のグラジオラス、これらは知る必要のない者に取っては全く意味を為さないが、いつか時が来てそこを通る者には必ず必要となる目印であり、最も無駄を廃した、最も大きな指標と言えるのかも知れない。

そして土手から突き出た大きな石の脇に植えられたグラジオラスを見るに付け、どこかで後進の指導と言う慇懃(いんぎん)な在り様が大袈裟なような気がして、どこかでそれ自体がまことに傲慢な感じがしてしまう。

自身が必要とする事、自身が楽しむ事をして、やがて数少ないながらも自身の後を追う者の指標となれたら、それを指標と思ってくれる者が有るなら、これをして自身との一致、最大の喜びと言えるのではないか、そんな事を思う。

私も竹の棒を刺そう、グラジオラスを植えよう・・・。

でもそれは後進の為ではなく、自分の為に、自分が楽しむ為に・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 自分のために、自分が楽しむために、良いですね、テレビだと、その言葉を掴まえて、噛みつく奴までいる。
    家が有ったところには、自然には無い草花や庭木が、残っている事が有りますね、芭蕉の山路来て何やらゆかしすみれ草。
    自分のために遣っていることに、智恵が有り、普遍的であれば、それは継承されて行くものだと思います。
    兎角、愚者は教えたがりますが、それが深い理解から来ないことが多く、中には、「これは難しい問題だから、みんなで時間を掛けて考えて欲しい」とかコメントする先生がいたりしてガッカリします。
    ま、或る程度、積極的に伝えなければ成らないことも多いですが、今流行の語り部もその内こなれてくるでしょうが、今一独善的臭いがして、高い倫理に支えられていない事もあるようです。
    庭園にある止め石は、物理的に侵入を止めることは出来ませんが、色々事情が有るので、これより先、立入ご遠慮願いたし、智恵の塊だと思いますが、その智恵が通じない世界になった。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      草を刈ればこその目印ですが、除草剤で済まさせると言う事で有れば、先人が刺した竹の棒は意味を失う。今の時代は除草剤のような時代ですが、除草剤を使っていると土手は脆くなり大きな雨で田んぼの畔は簡単に決壊する。厄介な雑草ですが、その雑草の根が有ればこそ土手は強度を保つ。
      実際に米を作った事のない農家、フードマスターの時代は雑草の効用を知ることが無い。とても恐ろしい時代のように思います。そして西郷隆盛の時代には「密議は戸を開け放って為すべし」でしたが、これも礼節と言うものが失われていれば通用しない。礼節の一つ一つは大したことではなく、一つくらい失っても構わないかも知れない。だがそれらが積み重なると、やがて田んぼの土手が大きな雨で崩れて行くように、大きなものが崩壊する。平安の僧「空海」は「理趣経」を封印しましたが、男女の交わりはある種の悟り、境地と言えるも、その片方、例えばこの記事で言うなら先人が為した事を本来自身につなげてはならない事を知って、初めて繋げる事の大切さを知るに同じかと思います。

      いやはや、何ともこの時代は薄い時代になってしまいましたね(笑)

      コメント、有り難うございます。

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