「東条英機・最終章」

総理が小磯国昭に変わってから、戦局はさらに悪化の一途を辿り、昭和20年に入るころには、日本軍は半ば投げやりとも思えるような、作戦ばかりが目立つようになっていった。
やがて4月、今度は大日本帝国最後の首相となる、鈴木貫太郎枢密院議長が小磯に変わって内閣総理大臣に就任する、このとき鈴木に課せられていた条件は「大東亜戦争の完結」であったが、その就任式の日、まさに日本海軍の威信、象徴でもあった戦艦「大和」が撃沈されていた。昭和20年4月7日のことだった。
ここに大日本帝国海軍はその終焉を迎えていたのである。

そして昭和20年8月15日正午、「耐えがたきを耐え、しのびがたきをしのび・・・」のあの天皇のお言葉がラジオから流れてくるのである。
しかしこの玉音放送はその録音技術もさることながら、国内にあったラジオの精度の悪さから、殆どの人が何を言っているのか分からないまま、ただ悲しくて泣いていたのである。

やがて日本に降り立ったダグラス・マッカーサー・・・、東条に言わせればフィリピンで、自分が指揮していた将兵を見殺しにした軍人の風上にも置けぬばか者だが、彼は真っ先に東条英機の身柄確保に動き、東条の家へアメリカ軍憲兵を差し向けたが、外から出て来いと言うアメリカ軍憲兵軍曹に対して、「今から行く」と答え窓を閉めると、東条は拳銃で胸を撃って自殺をはかる。

だがこの東条が撃った銃弾はわずかに心臓から外れ、そのためアメリカ軍は必死でその治療に当たる。
「こんなことで死なせてたまるか、俺たちの仲間や友人、父や兄はこの男のために死んだんだ、何が何でもアメリカの手で殺されなければならない」、アメリカ兵、そしてその医師たちは皆こんな思いから東条の命を救い、そして東条は回復して巣鴨の戦犯収容所へ収監される。
昭和23年12月23日未明、巣鴨の収容所にある絞首刑台で、東条はその64年の生涯を終えた。
東京裁判で判決が出る少し前、面会に訪れた夫人に東条は、「巣鴨で宗教を勉強できてうれしい・・・」と語っていた。

東条英機の名は、戦争開始から終戦間際までの日本の戦争指導者で、何がしかの象徴を求めるアメリカではヒトラー、ムッソリーニに並ぶ悪の権化として、また直接の敵国指導者としては、それ以上の「憎き敵」として思われていた。
またマッカーサーの進駐とともに、自国のプライドが剥奪された日本人は、その戦火の苦しみ、そして戦後のこの惨めさのなか、何がしか自身の内にも戦争に対する引け目を感じながら、身内を失った悲しみをぶつける対象として東条英機にそれを向けていった。

そして東条はなぜ頭を撃たなかったのか、自殺するなら頭を撃てば確実なのに、なぜ胸を撃ったかである。
東条はその心中に天皇のことがあっただろう・・・・、もし自分が自決してしまえば戦争責任は当然昭和天皇に向かう、自分はいかなる惨めなことがあっても自決できない、そう心に決めていたに違いない。

しかしいざアメリカ軍が自宅までやってきて、あの横柄な態度であり、東条は発作的に自決しようとしてしまったのだろう・・・・、が、心の片隅のどこかで引っかかっていた「天皇」が東条に頭ではなく、胸を撃たせたに違いない。

私はこの東条の「迷い」に戦争に対する責任「観」を感じるのであり、1人1人は善良な人々でありながら、その背後に動き始めた歴史の大きな車輪に自らを抗うことができず、巻き込まれ、その運命とも言える激しい流れの中、それぞれが命を賭けて生きようとした思いにおいて、東条もまた戦場に散っていった多くの若者たちと同じであると思うのである。

日本人はそれぞれが少しずつ背負わなければならなかった責任を、終戦時すべて東条に背負わせ、またどうにも立ち行かなくなったら天皇を頼った。
散々好き勝手して、悪者は東条にし、そして天皇に泣きついた・・・、これが日本である。

「おお、まじめにやっとるか」甲高い声で問いかける東条・・・、戦争で家族を亡くし、苦しい目に合っていると聞けば目に涙を浮かべて給料袋から金を出し、唯一の嗜好品だったタバコをふかしている東条、もし時代が平和なときであれば、彼はきっと役人として成功し、平凡な暮らしを送っていたことだろう。

終戦記念日の8月15日に当たり、未来を信じて大空に散っていった者、砲弾や銃弾に血を吐いて死んでいった者、原爆で何がなにやら分からず死んでいった者、劫火に追われ逃げまどい死んでいった者、それらすべての魂に、今日ここにわが身があることを感謝し、謹んでその魂の心安らかなることを希望する。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 同感です。
    まあ、何とか生き残ったのですから、よく研究して教訓を汲み取り、未来に繋げたいものです。

    少しだけ、ぶちまければ(笑い)、
    臆病なくせに執念深いのは米国人の共通した特徴で、マッカーサーはその代表選手、親の七光りで、大将になって、戦時だから成行で元帥になって、I shall return. 翻訳→兵共よ、ワシは恐いから諸君を見捨てて逃げるぞよ。戦後極東軍の最高司令官でしたが、朝鮮動乱でも全く対応能力に欠けて、最後は解任。

    日清戦争の最中にだされた第一軍司令官山縣有朋の訓辞:-「(敵)軍人といえど下る者は殺すべからず。然れどもその詐術(降参した振り)に掛かるなかれ。かつ敵国(支那)は古きより極めて残忍の性を有す。誤って正擒(生け捕り)に遭うわば必ず残虐にして死に勝る苦痛を受けついには野蛮残毒の所為をもって殺害せらるるは必然なり。決して正擒する所と成るべからず。むしろ潔く一死を遂げもって日本男児を全うすべし」も、後の東条英機の戦陣訓の一節「生きて虜囚の辱めを受けず」と成ったとされる訓辞だですが、徒に死ねと言っているのではなくて、支那人のように常軌を逸した残忍な民族相手でも日本側は堂々と戦え、そう言う相手だから手を挙げて降伏するな、むしろ死ぬまで戦かうべきだ。誤解は多いですが、温情だったかも。

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      マッカーサーが大統領に成れなかった要因は、ひとえにこうした軍の統率力のなさに有ったのでしょうね。
      ニミッツは提督小沢を「連戦連敗だが、その中には常に可能性が秘められていた」と評しましたが、彼の言葉を借りるならマッカーサーは「連戦連敗の中に人間性のなさが秘められていた」と言うべきものだったのでしょう。
      東条英機は政治家には向かない人間だったかも知れない。おそらく官僚として生きたら有能な人物だったのではないかと思いますが、太平洋戦争の申し子となってしまった彼にしても、戦争を始める前には一晩泣き明かしている。日本と日本軍は戦争を始めるときも皆でそれから逃げ、東条に決断させ、責任もまた然り・・・。
      民衆は本来自身が少しは持たねばならなかった勇気や気概を「仕方ない」で逃げ、その仕方ないが集まって戦争になってしまった。この事は今の時代でも決して忘れてはいけない事だろうと、私は思います。

      コメント、有難うございました。

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