「乾燥しないもので乾かす」

急激に進行する革命(revoliution)の中期、その意義や内容は理解されることなく、表面上の正義や自由、平等と言ったものが先行して人々の中に蔓延し、あらゆる現実をこうした表面上の形骸、薄い膜が覆い尽くして、その下では全く動きが取れない状態が発生する。

これは事態が急激に進行する為、直接空気に触れる表面が急速に乾燥し、その乾燥した表面が蓋になる事に拠って中が乾燥できなくなる、漆と温度の関係に全く同じであり、漆の場合は気温33度を超えると乾燥速度が低下する一方、表面は高い気温に拠って急激に乾燥し、形成された塗膜は加速的に蓋としての働きを強め、塗膜下の漆は乾燥速度が大幅に遅れてくる。

これが夏の高温時、漆の乾燥速度が遅れてくる原因だが、漆は空気中の湿度と温度で乾燥するものの、温度だけが高くて湿度が低い場合にも乾燥速度は遅れ、下地などに使われる添加剤に拠っても乾燥は遅れる。

漆の添加剤は上塗漆では「水酸化鉄」だが、下地では膠(にかわ)、砥の粉、米糊、燻蒸木製粉末、カーボン、チタニウム粉末、珪藻土焼成粉末(地の粉)などが使われ、これらの殆どの添加剤は時間経過と共に漆の乾燥速度を遅らせる為、調合したらすぐに使用する事が理想的である。

だが一方、高温時にはこうした添加剤を加えた漆を直後に使用すると、調合漆内の水分が急激に水蒸気化し、漆内部の乾燥に必要な水分までも浸透圧で外に出てしまう為、表面乾燥と共に、中が乾かなくなる場合が出る。

この場合の対処法は「遅い漆」を添加する事であり、例えば前日や前々日に調合した漆を、全体の3分の1を超えない範囲で加えると、逆に乾燥速度が向上する。

漆の乾燥は基本的には水分の消失性に比例する事から、これを急激に進行させない事によって全体の乾燥速度を向上させるのである。

また漆の添加剤として最も多用される「砥の粉」だが、この添加剤は基本的には3ヶ月以内には完全乾燥しない。

砥の粉は乾燥した状態だと塊にはなれない為、市販されている砥の粉は水で希釈された膠(にかわ)に拠って固められ、それが砕かれ塊となって販売されているが、膠は一定以上水で希釈されると、硬化の支配を自身が行えなくなる。

書に用いられる墨は膠で固められているが、持っても手が黒くなる事はなく、しかし硯(すずり)で摺れば液体化する、半溶解性の性質に膠が調節され、その効力のおかげで書の墨は乾けば手で触っても黒い色が落ちてくることは無い。

しかし汗ばんだ手で触れば墨は落ちてくる。

固形の墨の状態では取れていたバランスが、硯に水を加えて摺った為に膠が自助硬化支配をうしなったのであり、この場合の硬化支配は水分が握ってしまうことになる。

この墨よりさらに希釈された膠に拠って砥の粉は固められているのであり、つまり砥の粉を一定以上の比率で添加剤として使った場合、その乾燥は水によって常に安定しない状態を生み、この水分の消失率によって乾燥が進む漆の液体は、珪藻類の死骸の中で分散独立し、水に拠っていつでも硬化率が失われる膠の成分と交じり合う。

この状態の硬化は常に不完全な事になるが、しかし、この不完全なるが故に研ぎ加工、研磨が容易になるのであり、これも墨と同じようにバランスの一つと言えるが、高温時、急激に水分が失われるとバランスは崩れ乾燥しにくくなる。

そしてこの対処方法は、現在では一般的に知られていないが、明治、大正期の職人の中では既に答えが求められていた。

「米糊」である。

米糊はその大半が水分で漆と混じると化学反応を起こし、水分の蒸発が砥の粉より遅い。

この為、砥の粉が大量に添加された漆に、砥の粉全体の25%を超えない範囲で糊を添加すると、砥の粉下地は完全に硬化する。

ただし、糊が多すぎると研磨時に硬化した糊が水溶し、表面が涙を流したようにようになってしまうので、添加される砥の粉の量の25%以内は必須である。

砥の粉の添加は表面の滑らかさ、研磨の容易性には欠かせない。

これに糊を入れると、当然表面は砥の粉だけの物より少し荒くなるが硬度は向上し、品物自体の強度も砥の粉だけの物より向上する。

乾いているか否かが微妙な砥の粉下地を研磨するよりは、遥かに安定した研磨が可能になり、その表面上の滑らかさも、砥の粉単独の場合より少し深く研磨すれば影響は全く無い。

漆の強度は躯体、素地を超えない。

同じように漆の特性は添加剤の特性が主になる。

もともと粉末がバラバラでしか存在できない砥の粉と、水分が飛ぶとパリパリになる糊、簡単に言えば干してしまうとカチンカチンになるご飯では、どちらが硬いかと言う事である。

ちなみにご飯と同じで、腐食して水分に支配された糊、カビが生えた糊などを使うと、漆も傷んだご飯と同じ特性になる。

つまり乾かなくなると言うことだ・・・・。

さて、この話、日本で何人の人のお役に立てるかな・・・・(笑)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 深遠なお話し有難うございました。
    実利的には、役には立たないような気がしますが(笑い)、
    知的な好奇心を刺激するお話しで、大変面白く読みました。

    漆を使うことは、漆の木が有る世界中で、多発的に発生したと思いますが、中国もその一つでしょうが、埋蔵物の研究によれば、世界最古の漆は日本で発見されているようで、それも福井県辺りですから、その一帯で、世界最初に使われた可能性が有りですね。
    研究によれば、一万年以上前らしいですから、作った土器や木器、縄文人は織物の布を身にまとっていた可能性が大ですから、その服にも使われていたかも知れません。
    縄文人の埋設人骨を調べると、争乱も非常に少なかったようだし、相当前から栗その他の栽培、数千年前から稲作も有ったようですから、穏やかで豊かな縄文人は漆を使って、人生を豊かにしていたかも知れません。縄文土器もそうですが、漆も見せびらかしをしたかも知れません。
    もちろん、伝搬とか伝承の必要性は認めなかったでしょうから、記録は無いでしょう。今一万年の時を越えて(笑い)、培われた技術を記録して、後人の為のみ成らず、現代人にも役立つと思います、科学的には計測し難いでしょうし、工人の技術は元より計測不能ですから、分かる人は分かるが、そうじゃない人は、仕方が無い事かも知れません。(長くなりました)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      多分この話は漆の職人でも、必要とする人は日本で数人かも知れませんが、それだけに残しておきたい事でもあります。
      現在の漆芸技術はおおよそ2000年前、日本が縄文から弥生に切り替わった時代に大陸から伝播された技術ですが、それ以前の縄文時代にも日本独特の技術は存在したと思われ、この概念は今の大陸渡来技術では理解できないものがある様に思います。またそうでなくても、私がこの仕事に携わってもう40年近く、この期間だけでも失われた技術や物の形、考え方が沢山あります。これらは伝統と言う形骸の中で語れることも無く、いつかは失われて行く事になりますが、多分記録と言う事が成されなかった、或いは弥生の渡来文明に拠って駆逐された可能性もありますが、とにかく後世に残されなかった為に、現在では理解不能となっている事に鑑みるなら、ローカルなもの、失われたものほど克明に記録して措かないと、後世それを探すために多くの人が苦労する事になると思います。
      時々こうした専門以上に専門な話も出てきますが、一番加えられる量が少ないものが全体を支配する形は、農業の肥料における図式も同じかも知れません。

      コメント、有り難うございました。
      それにしても、今日は疲れました・・・(笑)

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