「共存」

2008年9月25日、1度絶滅した朱鷺(とき)がついに日本の大空を舞った。
関係者は長年の苦労に涙を流して感激し、多くの見物人もこれを喜んで眺めた。
ニッポニア・ニッポン、学名でも日本を代表するこの鳥は、昭和30年の時点で数羽しか残っておらず、それも昭和50年代には絶滅したとされていたが、日本の空にもう一度朱鷺を・・・と願う多くの人達、中国政府の協力もあって、ようやく中国の朱鷺を親にした孵化に成功、地道な飼育と自然環境で餌を取れるよう訓練までして、選ばれた10羽がこの日新潟県の大空に放たれた。

しかし現地で朱鷺が放たれた時点で1羽が既に行方不明、同じ年の12月16日には山でメスの1羽がタヌキなどに襲われて捕食された残骸で見つかった。

思うに、人間と言うのは何と残酷で傲慢な生き物なのだろう。
1度自然の状態で滅んでしまった生物を、もう一度空に舞う姿を見たいと言う1部の人間の意志によって無理やり復活させ、それを飛ばして喜ぶ、このありようは何なのか。
自分が見たいと言うだけで、自然と言う摂理がなくしてしまったものを蘇らせる、このことがいかに危険なことなのかを関係者や、のんきに空を眺めた人達は考えたことがあるのだろうか。
朱鷺は昔から農家にとってはサギと同じように害鳥だった。
苗を植えた田に入って餌を取るため、苗が踏まれ、そこだけ米が取れなくなるのだが、こうしたことを言う人間が日本には1人もいないのが不思議である。

日本野鳥の会と農家は天敵同士のようなもので、片方はサギの巣を保護しようと監視までして、片方は何としても巣を落として、サギの数を減らさなければと必死の攻防である。
またカモなども、実った米をあぜ道に沿って食い荒らすため、農家はその巣を見つけたらすぐに卵は持ち帰り、ゆで卵にする有様で、家の父親などは野鳥の会と聞いただけで、「帰れ」の一言だった・・・。

自然と言うのは2つの面がある。
一つは住んでいる者の自然、そうしてもう一つは見る者の自然だが、住んでいる者の自然とは生活に密着していて、そこには大局的な生物体系や、景観、あるものを守ろうとする概念が無い。
片方、見る側の自然は、大局的な生物体系や保護の概念があっても、そこに暮らす人達のことは考えられていない。
近年こうした実体が無視されて、地域住民の暮らしに不都合な問題が発生することから「世界遺産」の指定を受けることを躊躇する地域があるのはそのためだ。

日本と言う国は不思議な国である。
全ての地方自治体が、当地の産業は「観光」がメインになっていて、「観光」をスローガンにみんな協力させられているが、その実そこの地域で観光産業などほんの1部なのであり、では観光産業が他の産業のために何かすることが有るかと言えば、何も無いのである。
日本の全地域がうちは観光で・・・と言っていてどうしてこれが成立すると思うのかそれが分からない。
コインばくちで、みんなが表に賭けているのと同じなのだ。

朱鷺を巡っては北陸の各県がこの次の放鳥場所となることを環境庁に陳情しているが、観光業者はそれで良いだろう、また多くの関係ない者も賛成だろう、だが直接被害が出る可能性のある農家は、苦い顔で賛成している者もいることを知って欲しい。

数年前から家の田んぼの用水付近に2匹のサンショウウオがいて、多分オスとメスだとおもうのだが、年々大きくなってきているが、これは特別天然○○物の○○サンショウウオではないかと思う。
だが、私はこの話を家の両親には話したが、一切口外しないように口止めしている。
もしこれが発覚すれば、その付近は保護地域になり、人間が手をだせなくなり、毎日のように見物客が来て・・・になることは間違いなく、その結果それまであった綺麗な環境は荒れて、最後はサンショウウオが住めなくなるか、死んでしまうかどちらかになるのは、目に見えて分かっているからである。

このサンショウウオは私が田んぼを作っている環境で、少なくとも5年以上は暮らし、この環境に適合している。
即ち私とサンショウウオは「共存」しているのだ。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 甲州の友だちは、家庭菜園を遣っていますが、その親世代の人々は、畑の産物のかなりの分は収穫できなかったし、詰まり豊作の時は食べきれないし、不作の時でも猪やら猿やらにかなり荒らされていたようですが、自分が種を植えたからと言って、全てが自分のものじゃない、半分は自然に戻すと言っていたらしいです。

    我が郷里の海に多分北限らしい珊瑚の群棲が有りますが、場所は秘密です、ごく一部の人達が、知っているだけ、○○と同じで、露見すれば、荒らされて絶滅するでしょう。

    高校生の時に、未だ白神山地が世界自然遺産じゃなかったときに、スーパー青秋(青森ー秋田)林道の計画があり、自分もささやかな寄付をして、その計画は中止になりましたが、今は世界遺産、そこで山菜・動物を取っていた人々は、かなりの糧を奪われているようですが、逆の意味で諦めています、人口も減って、依存度も下がっているし。
    自然と人間の関わり方については、当事者じゃない人が、発言力大きすぎのような気がします、外国人移民・労働者の話も、利益を得る資本家は賛成でしょうが、競合したり隣人となるような人々の真の声は、固陋な意見として退けられている。
    日本は古代より時折外国人を受け入れて差別しないでいたのですが、今の有り様は当事者の意見じゃ無い気がするし、金権主義の宗教戦争と現代の帝国主義戦争の流れとしてみれば、日本は難民受け入れより、遣るべき事は有るように考えております。いつものように途中からちょっとづれました(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      たかが鳥を飛ばす為に数十億の金を使い、しかも絶滅したものを無理やり他国から連れて来て喜んでいるこの国のアホらしさ、米は環境の為に作っていると言うやる気の無さは、どう考えても人間の傲慢と生きることに対する冒涜のようにしか思えない。数万年、数億年単位で存在してきた山や海を観光資源という金に換算したものにしてしまい、決して人間の為だけのものではない自然は遺産にしてしまう。こう言う考え方が存在する限り人間は平和には暮らせないだろうと思います。生物が生きている事は遊びではない。人間の為だけに存在させてしまう事の恐ろしさを思うべきだろうと考えます。こうして田舎で暮らしていると生物の生死は眼前に現実の姿で日常に入り込んで来て、そこには命に対する崇高さがどんな小さな者にも存在していることが見える。現実を知らず映像や文字だけで知る知識は危うく道を間違えやすい。また人間以外の動植物は人間が考える以上に大きな適応能力を持ち、この中で人間が考える保護は逆に弱体化に繋がってしまう事が多い気がします。
      人が概念する幸福は他の生物に取って、とても恐ろしいものなのかも知れないですね。

      コメント、有り難うございました。

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