「戦争と平和」

平和と言う言葉は戦争と言う状態に対して、その対語として存在するもので、人間はこれを明確に概念として頭の中に描くことは出来ず、これをして言うなら戦争と言う現実は存在しても、平和と言う現実は戦争ではない状態としか表現できない。
英語のピース(peaca)、フランス語のぺ(paix)は、ラテン語のパックス(pax)をその語源としていて、それは協定の締結(pactum)による戦争の不在(absentia belli)を意味している。
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従って平和と言う言葉の意味、それがどんな状態であるかと言うと、戦争状態の終結が国家間の協定によって実現した、またはしている状態を指している。
即ちここで平和を考えるなら、戦争状態の合間の状態を指しているのであって、そもそも戦争と言う概念や現実がなければ、平和と言う概念もまた成立しないのである。
これが欧米の平和に対する基本的な概念だ。
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だが例えばインドではどうか、インドの「アヒンサ」(ahimsa)は包括する、包容力、または不殺生をその概念に内在させているし、日本語の平和もまた中世以降の仏教史観をその内に包括しているため、そこには単に戦争がない状態を指すだけではない、漠然とした幸福感も含まれてくるのである。
それ故、欧米の平和の概念は戦争と言う「主」に対する消極的概念だが、日本やアジアなどに存在する平和は、少なくとも状態を意味しない分、積極的概念であり、この観点から言えば中世ヨーロッパの民衆の中にも似たような平和の概念は存在した。
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その民族特有の文化を維持するために必要な物質的、精神的基盤(subsistence)を保護することを平和の意味にしていたのである。
だが近代西洋文明はやはりフランス革命の影響だろうか、例えばこうして中世付近には存在し得た漠然とした概念を明確化、文書化しようとした瞬間から狭義的概念へと変質して行き、そこには誰もが理解可能な概念、つまりこれが正しいかどうかはともかく、「平等」の精神が入り込んできたために、平和の概念が狭められた状況が存在してしまったように見える。
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また極端にリベラルな見かけが必要とされる近代欧米文明にあって、そこに中世には存在した宗教的不合理性が排され、数学的な理論展開が必要とされたに違いなく、こうした思想をあたかも真実の如く見せてきたのが、資本主義の行き着く先であった帝国主義だったと言うこともできる。
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そして世界はこうした欧米の平和概念を基本にしてこれまで動いてきたが、その結果がアメリカによるイラク攻撃であり、アフガニスタンへの侵攻である。
ここに見えるものは狭義の平和を用いて、この平和を維持するために戦争をするという、狭義の平和思想の空間的拡大、支配であり、これは平和の概念が広げられることと相反するものであることは言うまでもない。
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現代社会が持つ平和に対する概念は、基本的に明文化できるものではなく、これを明文化したものは、その大きな概念の一部にしか過ぎないが、この狭義の平和を用いてそれを推進しようとすると、宗教や伝統を包括した広義の平和とは対立が起こってくる。
これが現在の国際社会の状況であり、平和の概念とは、およそ同じ民族どうしであっても例えば民衆と官僚では違い、農民とサラリーマンでも違う。
これを統一した概念にしようとすればどうなるか、そこにあるのは必要最低限の平和、つまり戦争のない状態をして最終目的にしか出来ないことを、あらかじめ理解しない者には、永遠に平和など分かろうはずもなかったのである。
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またこうして平和に干渉した「平等」だが、この対語は「不平等」ではない、平等の対語は「自由」であり、平等と自由は同時には存在できない。
ゆえに現在我々の社会に存在する自由も平等も、限定されたものであり、純粋な自由も平等もこの地上にその存在が許されてはいないばかりか、求めてもならない。
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およそ生物として後代に子孫を残せるものは、その最も優秀なところから順位が優先されるのは自然の理であり、ここに平等を求めるなら、その社会は1人の王とそれ以外の奴隷、この内奴隷で有れば平等は成立するが、生きていたい、明日も生きたいと願うなら、その瞬間から平等などその個体内に存在し得るものではなくなり、自身が求める平等は、自身がそう思えるだけで、決して「他」に取って平等とはならない。
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平等の精神の根底に潜むものは、その出発点から始まって「比較」であり、この意味で平等とはその思想の始まりからが不平等を意識したものとならざるを得ず、初めから矛盾なのである。
また自身の自由は「他」の自由を奪い、「他」の自由を尊重すれば、そこに自身の自由は存在できない。
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自由とは常に全体に対する「個」であり、これを突き詰めれば確かに平等へと行き着き、同じように全てが他と均一であることを望み、これを突き詰めるなら、そこには完全なる自由が顔を出すだろうが、この状態はどう言う状態かと言えば、世界に自分1人しか存在しない状態を言う。
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平和、自由、平等、これらは何かの形を持たず、日々人により時間により動いているものであり、存在していても言葉に表すことはできず、また文字にもすることは叶わない。
それ故これを止まったものと考え、何かの突起を見つけ、それに先鋭化し具現化した場合は、いかなる時も過ちとなり人々に不幸をもたらす。
これが戦争である。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. ローマは領土への度重なる侵略の報復として、ポエニ戦争で、カルタゴを徹底的に破壊して、住民を皆殺しにして、残りは奴隷に売り飛ばして、史実かは兎も角、塩を撒いて、不毛の地とした。
    ルーズベルトの母方の祖父は、対中国アヘン商売で莫大な富を築き、ホンコンに豪壮な別荘を持っていた。少年ルーズベルトは中国の調度に囲まれ、親中的であり、蒋介石がキリスト教徒でもあった事もありアメリカの宣教師を多数受け入れていたし、日本の立場を誤解して居たこともあり、90年ほど前に日本を破滅させる戦略を立てて実行した。戦後、勝者の歴史を押しつけ、進歩的左翼文化人はコロッと騙された。一方ソ連は、日露戦争も有るし、実はノモンハンで日本軍から相当の被害を被って、恐怖を感じていたので、アメリカが日本を絶滅させようとして居るのに乗じて、満蒙他に侵攻した。これにも報復の権利は有りそう。
    今勘違い男のトランプが大統領になったら、アメリカの軛から脱するチャンスなので、今後50年の間に、経済で世界の支配を進めながら、核武装して、ICBMその他を2000発準備して、2発の報復の権利を留保しながら、半分は北米、半分は西方に向けて、顔はニコニコして世界制覇(笑い)
    日本では戦争は正邪善悪が絡んでくるので、謙臣も信玄も晩年は僧形でしたが、一神教の連中は、口では立派なことを行っていますが、全く未開のアマゾンの好戦的な絶滅の危機に瀕している裸族と遣ることは同じで、敵対者を絶滅して、全てを奪うと言うのが基本的な考えだと言うことに気付いてそれなりに対処したら良いでしょう。
    戦争を研究しないで、戦争を防止は出来ないのに、脳内お花畑症候群ビールス蔓延中、誠意を尽くせば相手も応えると思っている大きな勘違いがあるようです(笑い)
    普段はもうちょっと地味なんですが(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この世に人の在る限り争いは絶えない。
      毎日生活している中でも気に食わない人間が現れてくる、隣人の僅かな一言が許せなくなる。およそ戦争と言うものはこうした所に根を持つもののような気がして、しかもこれは競合と言う生物の本能、それも種が残っていく為の基礎本能では無いかと思います。
      ただこうした中で孫子は戦争に秩序を作り、その秩序に拠って人の命の消失を減らそうとしただろうし、孔子は「禮」(れい)と言う「形」をして、やはり人の命の失われることを減らそうと考えたのではないかと思います。そして大切なのはこうした2人が、決して争いが無い世界を夢見たのではなく、余りにも失われる命の大きさに、それを少しでも減らそうとした点に有るだろうと言う事で、根底には人間は争いから逃げ出せない事を知って、猶の考え方だったろうと思うのです。
      振り返って今の世界を見てみると本当に表紙だけは立派でも中身は無秩序であり、こうした権力の分散は「混乱」と言うものだろうと思います。そしてこうした世界の風潮、金が全ての状態はある種日本のチャンスでも有ります。第三次世界大戦は日本が経済で起こす・・・。金で支配するのも武力で支配するのも、礼儀で支配するのも支配は支配で、これらの中で情勢や国情に応じた支配を目指すべきだろうと、そんな事を夢見る訳です(笑)

      コメント、有り難うございました。

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