「表情の修正・Ⅰ」

 例えばエレベーターで、必死の思いでもうすぐ閉じようとしていたエレベータに追いつき、さて自分が乗った瞬間、総重量オーバーのブザーが鳴った場合、このときは例え体重45kgの女性で有っても、どこかでは深く傷つくことになるが、もっと気まずいのは周囲に対するリアクションである。
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本当のところはエレベーターに乗っている人が何を考えているかと言えば、早くその最後の一人が出て行って、エレベーターが動くことを考えているのだが、こうした場面は状況が違えば誰にでも同じことが有り得る状況から、その最後の一人が行うリアクションまでセットになって、他の乗客は少し先の未来展開を予想している。
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そしてその予想される未来展開の第一は、「笑い」であり、ここで最後の乗客、この場合は若い女性だったとしようか、彼女が苦笑いして「最近太ったのかな」と誰に言うでもなく言ってエレベーターを出れば、既に先に乗っていた客と女性の間には、ある種の共通した感覚上での相互理解が発生し、「運が悪かった」と皆が納得する事になるのである。
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元々エレベーターで総重量制限のブザーが鳴ったことに対して誰に罪が有るのでも無く、また最後の乗客にも非があるわけではないのだが、この若い女性がここでリアクションを間違えれば、本当は他人がそこまで思わないようなところにまで、自分で想像的に追い込んでしまい、傷を広げることになる。
人間はこうしたことが良く分かっているからこそ、そこに「体裁」と言うものが発生し、その「体裁」とは一見他人に対して為されているように見えながら、現実には自分のために為されている。
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それゆえエレベーターで総重量制限のブザーが鳴ったとしても、黙って出て行っても笑って出て行っても、それは現実に何の変化ももたらさないが、日本人がここで苦笑いする民族的行動本能の根底には「自己保身」が生きているのであり、こうした笑いによる表情のコントロールを「修正法」(modification )と言い、同じ民族で同じ状況下に措いて、同じリアクションが為されることによって、そこに発生したある種の感情的起伏は緩和され、また言葉にはない薄いコミュニケーション、「安心感」が発生するのである。
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そして予想される未来展開第二、「修正法」をリアクションした女性は大変素直で性格も優しく、他人に対する配慮も、自己顕示欲の度合いも程ほどに良い女性だが、これが少しプライドが高い女性になると、どうなるか。
「何よ、このエレベーター故障してるんじゃない」
顔を少し険しくしたスーツ姿の女は、プンプン怒りながらエレベーターを出て行くことになるが、これを「偽装法」(falsification )と言う。
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本当はエレベータでブザーが鳴ったくらいでそこまで頭にくることはないのだが、やはりここでも「体裁」が付かないため、感じた以上の表情を作ることで、本来の感情を人に悟れまいとするのである。
第一の「修正法」は少し腹立たしい気持ちの上に、「笑い」を乗せることで自分の感情を保護したが、今度は少し腹立たしい感情に、より大きな「怒り」の感情を乗せることで、もともとの小さな腹ただしい気持ちをカバーしようと言うものだ。
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同じことは例えば葬儀に措いてでも、本当はそれほど悲しい訳でもないのに、極端に悲しい顔をし、また時には自己暗示から涙を流す場合もこれと同じことが言え、こうした傾向が強まっていった場合、若しくは職業的に妥協を許されない状況のとき、人間は「無表情」になっていくものでもある。
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前出の例で言えば、エレベーターのブザーを鳴らしたのが、極端に自己顕示欲の強い人間の場合は、「無かったこと」のようにして黙って行ってしまうのであり、同じようにこれがデパート女性店員の場合だと、軽く会釈をして、黙ってエレベーターから降りるのが正しくなる。
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このように極端な自己顕示欲と、全く自己顕示欲の無い職業的リアクションには、ある種の共通的な傾向があり、こうしたことから考えられることは、極端に具合の悪い人間の行動と、洗練され、研究された人間の行動は、前者がその具合の悪さから来る不安感によって、後者はその職業的正直さによって、同じような行動になる場合があると言う事だ。
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「表情の修正」・Ⅱに続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 前にさわりを言った記憶がありますが・・・

    ずっと昔、新宿の有名な書店のエレベーターでの出来事、その日はもしかしたら、上階のホールで催し物が有ったかも知れません。その出来事は、全部で10秒ぐらいだったかも知れませんが、長く感じました。

    乗り込んで、ドンドン混んできて、そろそろかなと思っていたころ、10才位の少年とその30代と思われる父親が乗って来たらしかったのですが、ここでブザーが鳴りました。
    全体的には、無理なのに何とか子供を先にして乗り込んでくるからよぉ、の吐息が聞こえましたが、そこで、その父親が、「早く奥に詰めなさい」と言う命令的な声。他の人はそれは無いんじゃないの、あら、子供の将来が心配だわ、どんな家庭生活かしら・・等が綯い交ぜになった嘆息がその小さな箱に満ちて、固唾をのんで待っていると、エプロンに一番近い訳ではないと思われる方の声で、ちょっと済みません、という女性の声で、人に動きがあり、その方が降りました。ブザーは鳴り終わりました。そこでトドメの一言が、「だから早く中に詰めろ、って言っただろう」と言う父親の声。さっきの綯い交ぜの声に追加して、アラ何という、やや冷笑的な溜め息も加わりました。
    それ以外は、皆様行儀よく何事も発せず、エレベーターは動きだしました。

    多分、少年は30代の父親となって、自分の父とは概ね反対の教育をしているような気がします、そう有ってと願っています(笑い)。

    自分は今エレベーターを乗るような所には余り出没しませんが、あれは駅などでは、荷物が大きい人やそれなりに必要な人が乗るもので有ろうかと近づかないことが多いです。
    最近は説明しても分からない人が多いですが、暗黙の知識の共有、或る意味文化は、程度が下がっているのでしょう。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      一般に社会が共通して持つ概念、例えば道徳精神などが構築されていない人間は「未熟」と言う事になるのですが、これも生まれて直後から6歳くらいまでの間の社会環境が取り入れられて本能を構築します。ここで大切なのは比較現実と言う事になりますが、社会に現実の理不尽がなくなると、その比較から生まれてくるはずの理不尽を正そうとする考え方が仮想的になって来ます。その結果道徳は綺麗な部分だけが抜粋されたヴァーチャルになって行き、やがては道徳そのものの価値が失われ、その親の環境で育つ子供は更に道徳を失い続ける事になるかも知れません。モンスター夫婦、モンスター親子はこうして勘単に出現する事になりますが、一方でこうして比較現実の中に理不尽が増加すると、やがては一周した結果の非道徳の限界がやってきます。つまりここからまた道徳が構築され始めることになります。政治家から始まって言葉が責任を持たない現在の日本、あらゆる事がどうでも良くなってしまっている日本であればこそ、次に求められるのは秩序であり、新たな道徳の構築、今人々が求めているものは、こうした傾向の中間点と言う事になるのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

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