「nationalism」

nationalism(ナショナリズム)の語源である「nation(ネーション)はラテン語で「natio(ナティオ)、つまりは「生まれ」にその起源が有り、出生、出自の女神を指すと同時に家族よりも広く、氏族、部族よりは狭い範囲の「同じ生まれに帰属する者」と言う意味を持っていたが、この範囲が「場」に有るのか、それとも血縁に有るのかと言えば、それが重複された形で、どちらかと言えば「場」の方に多くの意義を持っていた。
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従って「natio」は元々血縁が重視されたものでは無く、1380年代パリやボローニャの大学でも「natio」と言う言葉が使われたが、ここではカレッジの構成員と言う共通性、地理的な繋がりを指していて、これが中世後期、近世ヨーロッパに至るに付け国家の案件に同意することができる身分制議会の発生と共に、特権階級の事を指すようにまで拡大されて行った時点から少しずつ矛盾を孕んでくる事になる。
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ラテン語の初期、「natio」と共に、どちらかと言えば血縁、言語同一性、文化的同一性を重視した「同じ生まれに帰属する者」の概念に「gens(ゲンス)と言う言葉が有り、これは本来文書的には区別できないものの、その意識の中では「natio」とは決定的な区分が存在していた言葉で、「地」と「血」の区別が有ったが、「natio」が近世ヨーロッパで特権階級の概念にまで拡大されると同時に、王や国家と国家運営を共有する者たちの中で同じ言語、同じ文化、思想が形成されて行った事から、ここに「地」と「血」が交わる、つまりは「natoi」は「gens」を包括して行ったのである。
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またイングランドを例に取って見れば解るが「薔薇戦争」で没落していった貴族階級に変わり、その下の身分の者たちが貴族社会へ参入するに当たり、言い換えれば国王の政治が民主化する過程で、「natio」では結束が保てず、「gens()を表に出していく事で結束が発生して行ったが、この基本概念はユダヤ教のヘブライ人を思想モデルにしている。
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同じ一つの宗教、言語と共通した歴史認識を持ち、特定の場から発展する事はないが、「他」を特異なものとしてでは有っても、その存在を許容する「自」が存在する。
この概念が現代社会の「natio」、所謂「nationalism(ナショナリズム)の概念であり、ここに「nationalism」の基本は国家運営の参加権付与が基本になる事から、主権が付与されることを条件とする漠然とした暗黙の約束が存在してくる。
従って「nationalism」の概念が有って始めて、主権在民の思想が成立していくのである。
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だが「nationalism」とは本来が「natio」と「gens」と言う差異の有るものから構成されている事、また個人の考え方は決して完全一致するものではないことから、「nationalism」の概念は大まかには「民族主義」「国民主義」「国家主義」の分支から発展したものとなり、国際社会の中でその民族が持つ特異性と多様性を鑑みるなら、各国のそれぞれが同じ歴史を辿ってはいない事をしても、「nationalism」の考え方はあらゆる多様性の中に存在する事を忘れてはならない。
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そして「nationalism」が動きを持つその原動力は、基本的には「ひがみ」である。
民族が他の支配からの開放を求め、政治的決断、運命をその民族が決定する事を望むのは民主主義の至高である。
だがこうした運動が大衆に広がり、それが何らかの交渉能力や権利を獲得するようになると、そこに発生してくる政策内容は「社会主義的なものになっていくが、これは思想が民主化すると劣化、つまりは個人の事情が大義的思想に侵入するからであり、ここに存在するものは比較による自己認識になる。
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また民族が統一と独立を実現する権利は「right of national self-determination(民族自決権)として国連憲章にも謳われているが、絶対君主への忠誠心から始まった国家帰属精神が市民革命を経て国民意識にまで拡大したヨーロッパでは確かに理性、自由、民主主義、社会契約と言った普遍的命題を「nationalism」にまで昇華することができたが、それ以外の国家ではアメリカが「力と金」、後進国では先進国に対する劣等感、屈辱感、不平等感が「nationalism」の核になっている。
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ここに中国や韓国による日本への「nationalism」の高まりは、基本的に欧米絶対主義、欧米崇拝主義の反動とも言えるのであり、その日本の「nationalism」は実は「natio」とも「gens」とも付かぬ中を各々が解釈した「nationalism」で突き進む事から「個人ナショナリズム」となっているのであり、これは基本的に天皇制と言う立憲君主制度の長い歴史の中で、国民が国家や領土の概念の責任を持っていないからである。
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更に中国を見れば解るように、今日国際社会で単一民族が国家を形成している国家など有り得ない状態の中、下手に民族意識を煽ってしまえば国家が分裂する危機を孕んでくる事から、現在の「nationalism」はラテン語原初の「natio」と「gens」を分離する方向へと動いている。
これが「ethnicity(エスニシティ)と言う考え方で、予め国家が多種の文化で構成されている事を認識した上で、問題に対する共同意識を構成しようと言う方向性である。
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しかし「ethnicity」の語源は本来マイノリティー、少数連合を指している。
国家とはあらゆるマイノリティの集積であり、大きなものも基本的にはマイノリティで有り、この中で言葉も含む圧力や暴力によって大きなものが小さなマイノリティを征した「ethniicity」は「ethnicity」とはならず、あちこちで適当な意見が外に向かって出ていくことになる。
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「nationalism」は「他」を攻撃する道具では無い。
「異端では有っても他を認める自」である事から、この原則は多数決もまた然り。
国の外に対しても内に対しても自分をどう調和させるか、それが「nationalism」と言うものではないかと思う。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 最近は語源とか歴史的変遷とかは忘れ去られ、或る種の過激的な人々、自称進歩的・自由主義者による狭い範囲の定義による意味のみが、横行して居るように見受けられます。
    それで、言葉を使い難くし、文脈に関係なくそれを使った人達を糾弾して我が地位を高めるのみならば、致し方ないとしても、追及された方も、反論撃破してマジョリティに訴えると言う意気もなく、ひたすら弁解に終始するような無知な連中が多くなっていて、全く情けない。
    国会論戦なんぞは、反問をしない習慣なのか、質問された狭い範囲の内側に有って、狭い回答しかしない。広範な深い議論が出来なくなっているようですが、時間が経てば、野党は一定の満足感が得られるのか、それっきりで、追及と全く逆の論理の提案が、賛成多数で可決されるという、お遊びが罷り通って居て、それに野党は気付いて居ない振りをして、我が身の安泰を担保しているようです。
    言葉は思想であり人格であるでしょうから、しっかりお勉強して貰いたい物だと心配しているのであります(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      勇ましい発言も目立つ日本政府、また右と称される方々の無知蒙昧な国家主義、と言うより仰るとおり、完全に自分の感情や打算でしかないのですが、そうしたものが跋扈した結果どうなったかは70年前を見れば明白な感じですが、これらはある種の現実逃避とも言えるかも知れませんね。今自分がどう言う立場に有るか、この国の力が如何程のものかをわきまえる必要が有ろうかと思います。そして力が無いときは黙って我慢しなければならない。生き残る為に耐えなければなりません。安易に勇ましい発言をしてもそれを担保できなければ、カラスの鳴き声にも及ばない。日本は今力が有りませんが、その事をしっかり認識し、力を蓄えなければならないだろうと思います。我慢して力を蓄え、他者が衰退したところを一挙に盛り返す考え方が大切だと思います。この世のあらゆるものには基本的に所有者が無い。だからみんな何かから借りているに過ぎず、時代や力に拠ってそれらは動いていく。だから一時的に失ってもそれは貸していると思えばよく、自身が管理が行き届かない時は、人手に渡っても、管理を任せていると思えばよい。力が無いときは人に管理を任せて、力だ付いたら自分の為に遣う。日本外交にはこうした考え方も必要な気がします。

      コメント、有り難うございました。

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