「生の使者」・Ⅰ

立つことの出来る者、その寿命30日間
体を起こして座れる者、あと3週間
寝たきりで起きれない者、あと1週間
寝たまま小便をする者、あと3日間
物を言わなくなった者、あと2日間
まばたきしなくなった者、明日
 .
これは日本軍歩兵第百二十四連隊旗手、「小尾靖男」少尉が記した日記の一節である。
そしてこれは昭和17年末頃、ガダルカナル島アウステン山で囁かれた、限界に近づいた人間に対する余命判断であり、しかもこの統計に基づいた判断は決して外れる事がなかった・・・。
 .
ガダルカナル島、太平洋戦争でこの名を語るとき、そこに横たわるものはもっとも過酷な響きを持っている。
昭和17年8月7日、アメリカ海兵隊第一師団の上陸に伴って開始された日本軍のガダルカナル島攻防戦は、「一木清直」大佐指揮一個連隊、「川口清健」少将の一個旅団、「丸山政男」中将の第二師団、「佐野忠義」中将の第三十八師団と、次々アメリカ軍に殲滅させられたが、その背景には制空権、制海権が既にアメリカに奪われ、食料や弾薬補給が出来なかったこと、また本来戦闘では絶対やってはいけない兵力の分散によって、常に多勢に無勢の戦闘になっていたことから、考えられない不利な戦闘となっていた。
 .
また昭和17年末には既に日本軍はこの地域に対して事実上補給方法を失っていて、そうした経緯からガダルカナル島の日本軍は、実際の戦闘よりむしろマラリア、アメーバー赤痢に感染して死亡していく、または餓死していく人数の方が多かったのである。
そして大本営がガダルカナル島の実情を把握し、ここから撤退することを決めたのは昭和18年1月4日のことであり、今夜はこのガダルカナル島から、もはや引くに引けなくなってしまった日本軍に、撤退を説得しに奔走した男の話である。
 .
井本熊男(いもと・くまお)、彼の名を聞くとあの悪名高い中国での細菌兵器実験組織「731部隊」のことを連想する方も多いと思うが、井本は確かに中国での細菌兵器実験には重要な役割を果たしている。
この点では幾ら上からの命令とは言え、彼にも責められるところはある。
だが井本は昭和18年ごろから、やはり大本営に対する疑念も持っていたと思われ、その一連の屈折した感情は、ガダルカナル島の惨状を見るに付け、頬をつたう涙をして、また後年、南に向かって敬礼をするそのあり様に、彼の思いのすべてを見る事が出来ようか・・・。
 .
昭和17年12月24日、ガダルカナル島の第17軍司令部参謀長「宮崎周一」少将はこのように日本へ打電している。
「いまやガダルカナル島の運命を決するものは糧秣となれり、しかもその機は刻々に迫りつつあり。軍の最も必要あると認められるものは糧秣、主食及び塩のみにて可なり、やむを得ざるも1人4合を切望する」
 .
多分この段階で第17軍の生存者は1万人を大きく割り込んでいただろう、そしてその残った兵士達も大部分が傷病兵となっていたに違いない。
この状況に本来は作戦の失敗であったことを隠蔽する為、大本営は極秘作戦として昭和18年1月4日、ついにガダルカナル島から日本軍を撤退させることを決定したが、通信状態の悪いガダルカナル島へはこの連絡が届かず、それで第8方面軍参謀「井本熊男」中佐が伝令、及び前線軍の説得の為にガダルカナル島に派遣されたのだった。
 .
そしてそのガダルカナル島で井本たちが見た惨状は、まさに阿鼻叫喚と言う言葉すら軽いものであるかの如くの光景だった。
ひょろひょろにやせ衰え、その目の焦点は完全にあらぬ方向を見いている兵士、木の根元に座りうつむく者、いずれもその軍服はボロボロになり破け、顔は既に髑髏に近い輪郭となり、井本たちが通っていくと、そこから聞こえてくるものは「殺してくれ、頼む殺してくれ」の声でしかない。
 .
また恐らく、長い間に渡って銃弾の補給もなかったのだろう、彼らが持っている物はみな銃剣と飯盒(はんごう)だけであり、それを脇に措いてみな横たわっていたが、死体が散在し腐りかけ、異臭を放つ中に、またそれは明日のわが身であることを自覚したかの様に、無言で虚空に向かって目を見開く傷病兵の姿は「地獄」すらも超えたものだった。
 .
ジャングルを分け入り17軍の司令部を目指していた井本は、こうした悲惨な光景を見るに付け、このガダルカナル島撤退と言う作戦が、いかに困難を極めるかを身をもって知ることになる。
即ちこのガダルカナル島の状況は、もはや引き返すほうが困難な状況まで突き進んでいたのであり、人間がここから死へ向かって進んだ方が楽か、引き返すことが出来る位置かと言うと、それはもはや「死」の道の方が遥かに近いところまで、ガダルカナルの日本軍は踏み込んでしまっていたのである。
 .
それゆえ井本が17軍司令部にたどり着いた時も、出迎えた「宮崎週一」参謀長と作戦主任「小沼治夫」大佐は、これは第8方面軍から激励と、最後の攻撃命令が下ったものと思っていた。
しかし井本がここで「撤退」と言う言葉を口にすると、小沼作戦主任は即座に反対し、宮崎参謀長もそれに頷いた。
「不可能だよ、井本参謀・・・」
「撤退などは考えられない、軍の状況から見て、とても敵(アメリカ軍)の目を盗んでここから離脱できるとは思えない。またよしんば少人数でも離脱できたとしても、大部分の戦死者達の遺骨は戦場に晒さねばならず、撤退できた者も既に残骸に過ぎない」
 .
「即ち、生きて本国に帰っても皇国の厄介にしかならないとすれば、ここは黙って死なせてくれ・・・」
「戦況は切迫していて第一線の前線も司令部も撤退は即ち死でしかない、みな既に玉砕を覚悟して戦っている」
「この多くの部下や戦友の英霊達を置いて、我々だけが帰れると思うか・・・」
「井本参謀、貴官も軍人ならこれを察して欲しい・・・」
小沼の言葉に宮崎参謀長も頷く、そして井本は天を仰ぎ、その涙を流すまいとしたが、ついには井本の頬を大筋の涙が伝っていった。
 .
                             「生の使者」Ⅱへ続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 緒戦で思わぬ成果を得たので、戦域を拡大していたが、これは所詮は無理な作戦で、ガダルカナル島は直ぐ窮地に陥った。
    田中瀬三少将率いる駆逐艦隊が、孤立して補給の無くなったガダルカナル島に物資を届けるべく輸送業務に従事していて、米主力の警戒中の連合国重巡艦隊に遭遇して、即座に緊縛し数珠繋ぎのドラム缶を処理して、全艦突撃した。いわゆるルンガ沖夜戦。
    戦闘は、作戦も良かったし、酸素魚雷の性能もよかったので、一方的とも言える勝利を得たが、再補填用の魚雷は積んでいなかったので、有れば又別の展開だったかも知れない。
    連合国は、この戦闘の田中少将の指揮を絶賛したが、帝国海軍は、本来の業務をほぼ達成できなかったこと、指揮艦先頭の伝統に因らなかったことなど、評価は芳しいものではなかった。
    ここに帝国海軍と雖も、戦争の本質より形式に囚われて、十全に機能していなかったことが読み取れる。
    仮定だが、警戒隊を撃破すれば、以後の補給はもっと容易にも成る。それ以降、勿体ない事であるけれど、少将は本筋から外された。帝国海軍解体の時は、木村招福もそうだったけれど、中将に昇進させた。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      組織が崩壊していく過程では手続きや体裁が重んじられ、有用な人間、正直な人間、現状把握が正確な人間から先に排除され、そして結果は悪い方向へと向かって行く。太平洋戦争に於ける敗戦への道もまさにこの通りに動いていきましたが、各々の兵士や指揮官達はその中で全力の奮闘をして行ったと思います。後年主にアメリカの戦争戦力研究機関や、海軍提督の中には日本と言う民族、国家に対して対戦した日本軍を通じて理解を深めた者も多く存在し、そこでは大本営の作戦など誰も評価していない。そこではギリギリの状態で最後まで諦めず、兵士達の命を無駄にしなかった指揮官達を評価しています。また戦艦大和が撃沈されていくとき、当時世界最大の戦艦だった大和に対し、空爆したアメリカの兵士達の中で敬礼をして非業の戦艦を悼んだ者も多かったと聞きます。日本が全方位戦争をするのは初めから無理な事でした。しかしその根底には僅かでもアジアの解放を信じる気持ちも存在した。戦争が終わって南方で取り残された日本兵士の中で、その後現地で暮らして行った者も存在した事は、日本が彼等の地で行った事は侵略だけではなかったと言う事を示しているだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。