「生の使者」・Ⅲ

井本中佐がガダルカナルに到着したのが1月14日、そしてガダルカナル島撤退作戦の完了は2月7日、実に3週間を要したが、こうして日本軍はガダルカナル島から撤退した。
ガダルカナル島に投入された陸軍兵力数およそ31400人、その内引き上げられたのは9800人、実のその兵力の60%を失う激しい戦闘だったが、兵士達が闘っていた相手はアメリカ軍ではなく、マラリア、脚気(かっけ)、下痢、そして栄養失調だった。
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第17軍司令官「百武晴吉」はガダルカナル撤退後、ラバウルの今村第8方面軍司令官を訪ね、涙ながらにこう語っていた。
「責任を取って自決したい、許可を乞う」
これに対して第8方面軍司令官今村中将の言は次の通りである。
「責任と言うが、あなたが兵を餓えせしめたのですか、既に制空権さへ失いかけている時機に、補給のことも考えず、3万もの第17軍を、兵士をそこに投じたもの者の責任ではないですか・・・」
今村中将は静かにこう語っていたが、その目にはやはり涙が浮かんでいた。
そして後日この2人の中将の話を聞いた井本は姿勢をただし、南の空に黙祷を捧げるのである。
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井本熊男、彼はガダルカナルへ「生の使者」として赴いたが、その以前には深い思慮もなく、参謀本部でガダルカナル島攻略作戦を指導し、多くの兵士を無残な死に追いやったこともまた、このガダルカナル島に赴くことで始めて気付いたのだった。
それゆえ井本はこの作戦に措いて、いつしか自身の軍人としてのありようを問われる思いがしたのではなかっただろうか・・・。
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太平洋戦争は、その立場にいる者がもう少しはっきりものを言っていれば、或いは起こさずに済んだかも知れない。
天皇がそうだろう、東条がそうだろう、山本五十六もそうかも知れない。
また国民もそうだ。
だが結果として誰も時を見据えた言葉を発することが出来ずに、地すべりのように戦争へとひた走って行ったが、ではこれだけかと言えばそうではあるまい。
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アメリカの台頭、そしてソビエトの成立、ヨーロッパにおける宗主国の衰退、経済の混乱から来るブロック経済の発生、資源確保に権益がぶつかり合う国際社会、そうした大きな流れの中に、日本もまた翻弄され続け、やがて歴史の渦の中にがんじがらめとなって行った姿がそこに垣間見える。
またヨーロッパやアメリカから、いろいろなことを学び取りながら建設された明治時代の日本、この躍進は全世界を驚嘆させるものがあった。
西洋社会が数世紀をかけて成立させたものを、僅か50年ほどで手に入れてしまったのであり、日本はこの短期間の間に欧米列強と肩を並べることになった。
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しかしこうした急激な発展はまた、短期間に強行されたものであり、そこには無理をしている部分や底の浅いものもあり、こうしたことが日本の歩みに歪をもたらして行った。
急速な資本主義は確かに民衆の生活を豊かにもしたが、それは一方で民衆と指導者、支配階級との距離感を広げ、社会問題を増大させた。
そして為政者はそうした民衆の力を爆裂させないために、そのエネルギーを大陸に向けての帝国主義的侵略と言う形へと導こうとした。
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この動きに欧米列強は反感を抱き、そしてこうした日本の動きをけん制しようと言う流れが生まれ、それが国際的な危機感を強めた。
日本はこのような欧米の動きを意識すればするほど民衆にこれを訴え、それが結果として民衆を煽ることともなって、日本を強大な軍事国家に作り上げて行き、またこうした軍事偏重政策の強行は、日本経済にも不自然な歪みを生じさせ、どこかで脆弱な経済体質を構成していき、その経済的脆弱さが更に発展を求めた時、その先に見えたものが中国大陸であり、しかもそれに対する方法が軍事的侵略だったのである。
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1945年8月、相次いで投下された原子爆弾によって、日本はそのどうにもならない戦争と言う回転からやっと目を醒ますことになる。
そして同じく1945年8月15日、ポツダム宣言受諾の昭和天皇の玉音放送によって、初めて明治以来離れ続けていた日本の本当の姿と民衆が対面したのである。
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今また国際社会は資本主義の原理を巡って各国が保護主義的な動きを強め、また日本の政府と民衆には大きな意識の差が見られる社会を鑑みるに、今一度日本がこれまで歩んできた道を振り返り、もし日本民族が太平洋戦争から得たものがあるとするなら、それが民主主義であり、平和を望む気持ちであるとするなら、深く、深く自身のありようを戒め、大局に立ったものの考え方を望むものであり、それをして以外、我々日本民族が、太平洋戦争で無残に死んで行った者たちに捧げる言葉など無いことを、心に留め置くよう希求するものである。
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ちなみにガダルカナル島撤退作戦では「瀬島龍三」が作戦参謀となっており、井本熊男は1945年8月6日、広島に投下された原爆によって被爆するが、戦後結成された自衛隊に参加し、1954年には統合幕僚会議事務局長に就任、その後陸上自衛隊幹部学校の校長を務め、1961年に自衛隊を退官しているが、2000年2月3日、96歳の長寿を全うしている。
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私は井本熊男に聞きたいことがあった。
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それは今の日本のこの姿で良かったのか否か、あなた方が命がけで守ろうとした日本は、あなた方の気持ちに答えることが出来たのだろうか・・・、それを伺いたかった。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 戦争の原因・その経緯は大きすぎるので、一旦忘れて(笑い)
    国家の存続の為の決断を全うすると言うことは、国家国民が一丸となってそれに当たるのは或る意味当然としても、苦難は付きものでも、本当の前線に立って、勝算の立たない絶望的な戦場においては、現場の将兵の苦しみを少しでも軽減すように国家が取りはからうのは、これ又国家の、国家たるべき義務でありましょう。
    翻って、ガダルカナル島の補給が途絶えた後の将兵の苦しみたるやこれは誠に惨憺たるもので、武士の情けで玉砕させてくれ、と言うのも、撤退すべきだと説得するのも、どちらも本当の心情だと思いますが、2万以上が亡くなったとは言え、1万人弱の将兵が生きてそこを出られたのは最後のせめてもの救いの気がします。
    多くの苦しみ、インパール作戦もフィリピン地上戦なども経て、或る意味、戦争の目的は達せられた、とも考えることが出来る様な気がします、死は無念であったけれども、その代わりにな成らないけれど、インド~インドネシアまで全て独立した。
    勿論、広島・長崎は許さない、これを見ても、民主主義国が軍国主義国を懲らしめた、なんて信じて居る日本人は、馬○丸出し。
    日本は今、間違った道に踏み込んでいって居る気がしますが、全てが軽薄化して、その頂点の1つは明日のハロウィン(泣き)であるでしょうが、市井の人々も気付き始めているだろうし、政治経済学者、宗教家そのた、指導すべき人々は、もっと智恵を出して、日本国は日本人のために何を遣って、世界に何を遣って、人類、地球の保全をすべきか考えた方が良いでしょう(笑い)
    少なくとも、戦争に斃れた人々の事を忘れてはならない。
    自衛隊は人殺し集団とか言う、ノーベル文学賞を受賞した作家が居ましたが、どっかの国の陰謀じゃないかと(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      こうした平和な時代に太平洋戦争の意義や正誤を語るのは難しい、いやそもそも今の時代の者が過去を判断する事は傲慢な考え方とも言えるかも知れません。
      各々の時代の人がその時代を精一杯生きた事に対し、今の人間が軽々にそれを判断する、こうした今の日本政府や一部の国民に対し、私は戦争の経緯や指揮官、或いは兵士達の在り様を通して平和に対してもっと考えて欲しい、生きると言う事を真剣に考えて欲しいと言う思いが有りました。
      日本海海戦ではバルチック艦隊司令官は日本で治療を受け、捕虜達も食事が与えられ最後は帰国させている。それが太平洋戦争では鬼畜になってしまい惨殺するしか道が無かった。「勝てば良い」と言うものではなく、戦争と言う状態に拠って尤も試されるものは自国、自分自身であり、力無き者がやる事は残忍になる。今の日本の勇ましい発言の多くは「力無き者」の声のように聞こえて仕方ない。
      力無き時も力有る時も黙って、その現状で為せる最大の事をする。これは孫子にも出てきますが、孫子以前に人として生物としての大原則と言えるだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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