「戦いは始まった時に終わっている」

 

策多きものは即ち勝ち、策の少なきものはこれ、敗れる・・・

尼子義久を破って、ついに中国地方をわが手中に収めた毛利元就、彼が座右の銘としていていたのが、この言葉であり、この延長線上には尾張のうつけ、織田信長がある。
信長が桶狭間の合戦で、その手柄第1位としたのは、今川義元が桶狭間にいることを知らせた者だったのである。

このように戦いに置いては、常に情報を先に入手したものが戦局を有利に進めることができるが、そうした意味からも世界各国は情報を集めることを専門とした機関を持ち、こうした機関を諜報機関と言うが、その規模が最も大きいのがアメリカのCIAであり、旧ソビエトのKGB、中国の諜報機関などがこれに次ぐものだった。
そうそう女王陛下のジェームス・ボンド氏が所属していた、MI6はイギリスの諜報機関だった・・・。

だが、その規模ではなくもっとも情報収集能力が高いとされている諜報機関はどこかと言うと、これは群を抜いてイスラエルの諜報機関、「モサド」であることは、世界中の諜報機関関係者が口を揃えるところで、これはイスラエルが公開している情報なので、いささか自慢げに思えないでもないが、モサドが脚光を浴びたのは第3次中東戦争のとき、1967年の「6日戦争」のときである。

イスラエルはエジプトとの戦争が勃発するはるか以前から、モサドとその下部組織カッツァの要員をエジプトに潜入させていて、こうした要員たちは戦闘機の準備状況、パイロットや技術者の氏名年齢は勿論、その生活スタイルや酒癖、性的嗜好まで調べ上げ、毎週テルアビブに伝えていた。
またモサドの中にあるLAP(心理戦争局)はエジプトの航空兵や地上要員、参謀や将校のファイリングを行っていたとも言われていて、彼らの飛行実績やその昇格のしかた、つまり実力か人間関係で昇格したかの区別、はたまたアルコール依存症、同性愛者、無類の女好きで売春宿に通っている者など、詳細に渡って調べ上げていたのである。

その結果エジプトの戦闘機が出撃しにくい時間帯を、午前8時から8時30分と割り出したモサドは、このことをイスラエル空軍司令官に報告、1967年6月5日、イスラエル空軍は午前8時1分、シナイ半島低空から爆撃を行い、思いのままに地上の戦闘機や施設を破壊したのである。

この間エジプト軍が全く反撃できなかったのは、午前8時からの30分間、カイロの総司令部には作戦を指揮できる責任者の数が少なくなるからで、こうした情報をイスラエルは的確に把握していたのであり、イスラエルの攻撃がなぜ6月5日に決定されたかと言うと、このあと数日でエジプト軍の戦力がすべて整うことが分かっていたからだ。
またエジプトのナセル大統領の関係者の中にも、モサドが潜り込んでいた可能性もあった。

ではこのモサドとは一体どういう組織なのかと言うと、1951年3月2日、イスラエルにそれまであった5つの情報機関の統合本部、調整機関として設けられた機関で、「ハ・モサド・レ・テウム」と言うのが正式な名称だが、略してモサドと呼ばれ、主に海外での情報収集活動が目的とされていたが、運営や政治上の理由から外務省の管轄下になっていた。

その構成人員は既存情報機関からの引き抜きや、イスラエル国防軍政治部の対イラクスパイ組織網所属者が多く、事実上はこのスパイ組織が中核となった新しい組織と言う面があったが、その構成員はたった300人未満と言われている。

これは故事に基づき、かつてイスラエルの士師ギデオンがたった300人の精鋭部隊を率いて、大軍を打ち破ったことにならったものであり、毎年900名以上の新規採用があるアメリカCIAや、2000人のエリート集団MI6から比べると、かなり小規模なもののように感じるかも知れないが、このモサドの下にカッツァと言う場所や状況に応じて活動して、報酬もその都度支払われる仕組みになっている、モサド支援組織があり、これを通じて全世界に散らばるイスラエル人から情報を集める仕組みがあることから、事実上モサドは世界最大の諜報機関とも言える。

イスラエルと言う国は、良くも悪くも歴史的普遍性を持った事実を、そのとおり実践する国である。
モーセの死後、神に選ばれたヨショアがエリコを攻略するときに出てくるのは、スパイと売春婦であり、これは記録に残る世界最古の職業と言えるだろう・・・、そしてその重要性は現代も全く変わっていないばかりか、特にスパイの重要性を最も高く認識している国がイスラエルなのである。

そしてモサド構成員の資格、また一体どう言う人材がこの組織に所属しているかと言えば、正統派ユダヤ教徒はこの資格から除外されている。
イスラエルのために働くのだから、ユダヤ教の熱心な信者が良さそうなものだが、これだと宗教的制約をしっかり守って、スパイ活動に支障が出るからで、「あ、今は祈りの時間なので・・・」ではスパイ活動は無理だからである。

またイスラエルには独自の農業や工業の共同生産組合、と言った性格の共同体組織があるが、これを「キブツ」と言い、こうした共同体出身者がモサド構成員になっている例が多く、その理由はユダヤ人としての民族意識が高く、同時に共同体の中で生活してきた人材は、組織活動に向いているとされているからである。

1954年、モサドのトップはアメリカ・CIA長官に就任したばかりの「アレン・ダレス」と会談しているが、イスラエルからダレスに贈られた短剣があり、そこには「イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」と言う詩篇の一節が刻まれていたと言われ、それに対してダレスは「私も・・・」と答えたとされ、ここにイスラエルとアメリカの諜報機関どうしの提携が成立したとされている。

やがてアメリカから最新鋭の機材提供を受けたモサドは、中東戦争に勝利すべく、アラブ諸国のすべての主要都市に潜り込み、貴重な情報を探り出し、暫くしてモサドとCIAの間には互いの組織間に極秘ルートや、ホットラインが設置されていき、その情報は必要に応じて共有される仕組みが作られて行ったのである。

最後に・・・、モサドは第二次世界大戦中、ユダヤ人を迫害したナチス戦犯逃亡者に、爆発物を郵送して報復する暗殺任務も担当していたが、これなどはモサドの中に作られた「レオン」と言う機関がその任務を担当するようになり、半ば爆弾テロ組織化し、モサドの名はどちらかと言えばテロ組織として国際社会から恐れられた経緯があり、本質はその辺にあると言っても過言ではなかった。
リビアのカダフィ、PLOのアラファトも暗殺計画があったが、モサドはこれに失敗した・・・と言われている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. ルーズベルト大統領が、わざと脇を甘くして居たと言うこともあるようですが、帝国海軍の連合艦隊が、ハワイ襲撃をする前には、かなり事前の調査をしていた様ですが、情報と兵站は作戦より一段格下で、当時は孫子は廃っていたのか、今考えると、マンガのよう(笑い)。
    Go to Jericho のエリコに行ったことが有りますが、お土産売りが一杯居て、地獄っぽくは無かったですよ(笑い)。
    後年知ったのですが、知り合いで、キブツで半年、働いた事が有るらしい人が居ますが、20代に知っていれば、行ってみたかった、気が長い間していました。或る意味アメリカのアーミッシュのようで、生きる事の原点をしっかり考えることが出来たかも(言い訳-笑い、それともsour grapes!?)。
    イスラエルの第一の空港、テルアビブ空港に、昔は初代首相の名を冠したベングリオンターミナル、って呼んていた気がしていましたが、今は、空港そのものの名前に成った様です、建国の初心をいつまでも記憶するという事なのでしょう。
    今はタカ派のネタニヤフ首相ですが、パレスチナ人やアラブ人との共存を模索した、アリエール・シャロン将軍の遺志を継ぐ人が、力を持って、あの地域にもっと平和な時代が来るのか、それともそれは不都合だと言う人が多くて、不安定が続くのか、日本にとっても重要な情報の様な気がします。
    ユダヤ人、若しくはイスラエル人もパレスチナ人も、東洋人の自分には、とても親切でしたよ、時々爆弾は、破裂していましたが。これも代理戦争の一部でしょう。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私の知るイスラエルの人も敬虔で礼儀正しく、そして人の心情に心を配る人が多いです。またパレスチナは若い時、本当にヤバイ時期に行って来ましたが、彼等もまた日本人だと知ると、どこかで「そうか、日本か・・・」と言う、ある種の憧れ、或いは弱い尊敬の感じで迎えてくれた記憶があります。またキブツは何か独特のような印象を受けますが、こうしたシステムは過去の歴史上、あらゆる地域で近いものが存在したように思いますし、封建の家制度を考えるなら日本人には比較的なじみ易い考え方かも知れないですね。真珠湾はルーズベルトの美人局、チャーチルなどがアメリカを戦争に引き込む操作をしていて、真珠湾攻撃が始まった事を知ったとき、「やった、勝った」と呟いていたようですね。これに気が付かないなど、せっかく足利尊氏や織田信長が情報の重要性、詭道の在りようを示したにも拘わらず、全く役に立たなかったと言う事だろうと思います。
      日本は今国内の事で外がまるで見えていませんが、世界的には戦乱の火種、経済危機の兆候があちこちで出始め、さながら革命の前夜の様相なのですが、TPPで大臣の失言、韓国では政権の私物化等、極東アジアは実に優雅な在り様ですね(笑)

      コメント、有り難うございました。

  2. フィリップ提督の指揮する英軍極東艦隊が、日本帝国海軍の艦隊を撃滅すべく、シンガポール港を出港、3日後に帝国海軍第22航空戦隊の懸命の索敵で、発見され、襲撃され、最新鋭の巡洋戦艦「レパルス」と旗艦の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が、敢え無く撃沈の報にその大ダヌキのチャーチルが、接して、顔面蒼白、当時はまだ作戦行動中の戦艦は空襲で撃沈されないと信じられていたらしいですから、特に大ショックだったでしょう。
    そして、4年後に太平洋戦争は、日本の敗戦で終了。
    戦勝国が、東京裁判他を開いて、人道だの平和だのを持ち出して、民主主義だのと理由を付けて、後出しジャンケンで勝って、その一方で、旧植民地を回復しようとしましたが、結局は全て独立。
    そう言う意味じゃ、日本は戦争には負けたけれど、戦略的には目的の過半は達成したと言えるかも知れません、犠牲は巨大だったけれど。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      太平洋戦争では、元々イギリス軍は大きな功績を上げる機会は無かったような気がしますが、そもそもこうした列強の植民地統治が難しくなって来た事から、民族解放の機運が高まった背景があり、アジア共栄圏と言う考え方は必ずしも植民地支配だけではなかった。石原莞爾などの頭の中には中心は日本でなくても良いと言う考え方すら存在していました。太平洋戦争で日本が失ったものはとても大きく、それを今も引きずっていますが、こうした日本の犠牲が今日東南アジアやアジア諸国の独立に寄与した事は間違いないと思います。でもこうして世界情勢を見ていると、日本もアジア諸国も未だに何かから完全独立ができていない気がします。アジア共栄圏と言う考えが今こそ必要な時期のような気がします。台頭する狂犬のような大国に挟まれた日本と東南アジアは共栄と言う形でこうした勢力と交渉できる力を得るべきだろうと思いますが、それを邪魔するものは日本こそが先進国、リーダーだという意識なのかも知れませんし、貰う事に慣れてしまったアジア諸国の体質に有るのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

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