「生まれ死に、生きている」

朝、目醒めて死んでいなければ、私たちは何も考えることなく呼吸し、目を開けて空を眺め、「ああ、綺麗な朝日だ・・・」などと思う。そして特に考えなくても腹は減っていて、景気が悪いせいで品数こそ少なくなったが、用意して貰ったか自分で作ったかはともかく、ご飯やパンとともに味噌汁やスープを口に運び、何か意図的な努力をしなくても心臓が動いてくれて血液が体を循環している。

このように体が生きていることは、人間にとって当たり前のことであり、誰も意識して呼吸したり、心臓を動かしている者はいない。
また歩くとき左に曲がろうとして、足に左へ曲がれと思っている者、誰かが何かをくれると言った時、手を出そうと考えて手を出す者もいないだろう。

こうしたことを考えるとき、朝目が醒めるのが当たり前だと思っていたら大きな間違いであり、実は朝目が醒める保障などまったくないのであって、それを何とか目醒めるようにしているのが、生きていて当たり前のように思われている自分の体なのである。

そして今夜はこうした自分の体、「人体」の中でも「血液」の話を少ししておこうか・・・。

人間の体重の約8%、体重60キログラムの人で約5リットルが人体の血液量だが、血液に含まれる細胞の大部分が赤血球であり、赤血球はヘモグロビンをを多量に含んで、酸素を各器官や組織に運搬する細胞だ・・・、が、これにも寿命がある。
骨髄の多能性幹細胞から生み出される赤血球は、やがて成熟して核を失い、流血中に出て行く・・・・、つまり細胞としては死んでしまう訳だが、その寿命は凡そ2800時間、120日ほどであり、この間体全体の血管を循環し続ける。

心臓から押し出された血液は、1分以内に全身と肺の血管を一巡し、赤血球は24時間換算で1500回ほど、120日の寿命期間では18万回ほど、全身と肺の血管を循環していることになる。
そして120日ほど経つと、赤血球の細胞膜は脆く破れやすくなり、脾臓などで破壊されてしまう。

人体の血液は、例えば怪我などで血液を失うことがなかったとしても、その血液量の120分の1、つまり体重60キログラムの人で約40ミリリットル分の赤血球が毎日失われていき、造血組織ではその失われた分の血液を新しく作って補充している。
そしてこうして生まれ変わってくる赤血球の数は毎日約17億個・・・である。

血液だけで毎日17億もの細胞、つまり生命の数が生まれ、そして死んでいるのであり、そうしたものの総称として人間があるのである。

たまには生きていることに、そして体に感謝したいものだ・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 快眠、快食、快○、高校生の時は、近所の小学校校庭の夏休みの子どもたちのラジオ体操に毎日出席して、出席のハンコを押していました、ちょっとのズルにも寛大に(笑い)。
    今、近所にもラジオ体操会が有りますが、全くの軟弱者に成り下がり、家でラジオだけ聞いています(笑い)。
    昔読んだ、「喪失の国、日本」のMK・シャルマに倣って、朝寝床で目が覚めたら、生きていることを確認するために、目をグリグリ動かして、天井に向かって、「おはよう」と言って、手足を動かして、全部確認できたら、「ヨーシ、今日も生きているぞ、目も見えるし、口も利ける、手足だって、昨日と同じに動く。天地の神々、四辺の神々、有難うございます」と言ってムックリ起き上がって、自然、人々、ご飯が食べられることに感謝して、一日生きる~~♪
    と思いながら、ついつい惰性になって、ボヤ~~と生きているのですが・・・
    貧困・紛争地域から見たら正しく奇蹟の国であるし、それなりの国や、欧米から見ても充分に幸せな感じがするのですが、到達不可能な理想を基準とされて、社会が閉塞し、登校拒否児童学生は増加の一途、無駄な儀式や残業、又は小額の金のために心が蝕まれていて、自分から不幸に飛び込んで行っているやに見えます。
    そんな人達は、数ヶ月、アフリカや南(東)アジア、中南米の田舎で過ごして、生きる、を体験したら良いでしょう、人生の中の数ヶ月って、全くの一瞬でしょう。
    程々の目標に切り替えて、幸せに生きればよい(笑い)、実際はこれも僥倖の様な物でしょうが。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      私たちに取って生きている事はどこかで当たり前のような感覚が有りますが、よくよく考えてみれば朝起きて目が醒める保障はどこにも無く、明日を迎えられる保障も無い。しかし明日の事を心配し、子供の将来を案じ、まるで永遠に生きているかのようなものを前提に毎日暮らしています。
      あれが無ければ生きられない、こうしてくれなければ死ぬしかないと言いながら死ぬ事は無く、生きる事を自身の欲を満たす道具としてしか考えていないかも知れません。私はカイロで後ろから銃口を向けられた事が有りました。その時思った事は「ああ、仕方ないな・・・」と言う事でしたが、幸いにも命が助かったときに見た太陽のまぶしさは今も忘れる事はできません。ヨーロッパでは道路に穴が開いていてもそれがなおせず、でも人々は文句を言う事も無く、その穴を避けて通っていました。生きている事が権利のような考え方の日本人は少しおかしい。生きている事、生きる事は権利ではなく自身の全て有ると言う事を考え、その上で他者の事を考えるなら、今のようなぬるい日本の考え方も変わって行くのだろうと思います。
      変革を期待した合衆国、日本ではその変革が災害に拠ってやってきそうですね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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