「おぼくさま」

日本の標準的な発音では、仏に供える米の事を「御仏供米」(おぶくまい)と発音するが、一部を除く能登の大部分ではこれを「おぼくまい」と発音し、更に私が住む仁行(にぎょう)まで来ると、これが神様に供える「御供米」(ごくまい)との区別すら怪しくなっていた。

流石に正式な場ではそう言う事は無かったが、その話の内容に拠って「おぼくまい」と言えば、仏事が話題なら「御仏供米」神事が話題なら「御供米」と言うような曖昧さが存在したもので、とにかく何かにお供えするか、お供えされた米と言う概念の省略形として「おぼくまい」と言う言葉が成立していたのかも知れない。

そしてこの「おぼく米」や「御供米」が炊いたご飯になった状態になると「さま」が付けられ、ここでは「御仏供さま」(おぼくさま)や「御供さま」(ごくさま)と呼ばれるのが能登の、昭和までの一般的な在り様だったが、漁師町などでは通常の食事で出てくるご飯でも、古老などは「御供さま」と呼んだもので、姿勢を正して頂くようにと注意されたものだった。

この云われは、「おぼく米」「ごく米」は、帰って来ない、つまりお供えした米は神や仏への一方通行だが、炊かれたご飯状の供え物は、その供えが終わると参加者に清められた、或いは仏の功徳が宿ったものを広く皆で共有する意義が有った為で、こちらから差し上げるものは唯の米だが、お供えが終わってから帰ってくるものは神仏の恩恵と言う考え方が有った為だと言われている。

それゆえ「御仏供米」や「御供米」は「米」で終わるが、それが炊き上げられたご飯になると「さま」が付けられたようである。

ちなみにこうしたお供え物の米を入れる袋が存在したが、これが「御仏供米袋」(おぼくさまふくろ)と言うもので、これも標準語的には「おぶくまいふくろ」だが、また米の状態ではないから先の話からすると少しおかしい事になるが、この場合の米は寺の行事に供される米で、その行事にはお供えした者も参加し、寺で皆で精進料理を作ってもてなしを受けるからで、この場合もお供え物が幾ばくか帰ってくる形になる為、「おぼくさま袋」となるのである。

そして神社などに奉納される米は、昭和50年代までの仁行地区では、神社から配られるさらし布で作られた白い細長い袋が用いられ、ここにはその各々の家の先祖の名前が墨で書かれ、裏には神社名と押印が為された袋が存在し、各家は配られてくるこの袋に米2升を入れて奉納するのが一般的で、この場合の米は原則玄米だった。

同様に寺院でも、寺院側が米の供物を求める場合には、神社で使われる袋と同じようなさらし布で作られた細長い袋が存在し、幾世代にも渡って使われてきた為、その家の当主名は祖父になっていて、白い色も長年の時を刻んだ事が明白な、黄褐色、若しくは鼠褐色とでも言えば良いか、そんな色の袋だった。

これが正式な「おぼくまいふくろ」、「ごくまいふくろ」である。

現在ではこうした袋が存在した事すら忘れられてしまっているが、「御仏供米袋」にはもう一つの形が存在していて、これを一般的に「おぼくさま袋」と呼び、先の「おぼくまい袋」とは区別が為されていた。

綺麗な布の端切れを7枚、9枚と言う奇数枚数使って縫い合わせた巾着形の袋も「おぼくまいふくろ」と呼ぶが、寄進された米や小豆、大豆などが大きな容器に移されると、この布袋だけは返され、農家などではこれに色んなものを入れて運んだものだった。

この袋は寺院や神社からの要請で為されるものではない、自身が寄進するものである事から、その地域住民に取っては正式な「おぼくまい袋」とは若干軽いニュアンスが存在し、それゆえ「おぼくまい袋」と呼ばれたり、「おぼくさま袋」と呼ばれたりの曖昧性が有ったのである。

最後に「おぼくさま」にはもう一つ、隠語が存在し、これを言うとまた差別だ、ハラスメントだと言われてしまうかも知れないが、お供えした「おぼくさま」、ご飯を長くそのままにして置くと、やがて食べられもせず、しかし捨てるにはもったいない状態が発生し、人間にもこう言う状態が存在する事から、「おぼくさま」と言えば・・・適齢期を過ぎた女の事を指し、捨てるには有り難過ぎて捨てられず、では食えるかと言えば食えない。

そのままお供えしておくしか方法が無くなるのである。

古い時代の価値観での下ネタゆえ、ご婦人方には平にご容赦を・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 言霊の国だから、一旦口に出してしまえば、その呪縛~祟りから逃れられなくなるので、隠語化したのでしょう(笑い)
    近年は、社会が充実、満足度が上がったろうし、自由度も上がって増える傾向にある様ですが、それはそれで慶賀すべきでしょう、一歩進んで、一緒に暮らさなくても、子供だけは育てる自由さと豊かさが有ればもっと良い(笑い)
    知り合いに、遊びとか仕事は、楽しいけれど、終わってしまえばそれまで。子供は苦労が多いが、何かを達成すれば、ま、簡単単純に言えば、子供が努力して、その子を助けて、希望の勉学が出来てそちら方面に進めることが決まればずっと、子供も自分も幸せが続く、遊びや仕事などより、よっぽど楽しい、みたいなことを仰って居りました。もしかしたら、今様の独身のキャリアウーマンを、同情を以て見ているかも知れません。

    近所の天満宮の各種行事を見に行くと、氏子・総代たちが、一棟に集まって、軽く酒食を共にしている情景を見ることがあります。若い内は、余計働いて苦労も多いでしょうが、長生きできれば、坐っているだけで後継の者がそれなりの待遇をしているらしい長老が、数人いて尊敬を集めている、そんな立場に憧れておりましたが、根無し草で、年中行事は何時も外から見るばかりで人生は終えそうです(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      新しいものが出現して古いものが消えていくのはこの世の倣いだと思いますが、そうした古いものの中にも日に役に立つものもあるような気がします。どうも人間のやっている事は循環のような気がして、それで今は失われたか或いは失われつつある慣習やシステムを記録しておく事も大切なのではと思う訳です。
      しかし「おぼくさま」は上手いですね・・・。
      捨てるには有難過ぎて捨てられず、食うにも食えない。そのままお供えしておく・・・。
      実に深いなと言う気がします。
      現代では結婚しなくても子供を持つ女性はたくさんいますが、もはや結婚が絶対的なものではないですから、感覚的には全く抵抗は無いですね。しかし社会のシステムがまだその感覚に追いついていない。感覚で理解しつつも現実では厳しい環境のままかも知れません。もう少し進んで結婚と言う法的関係と現実肯定が並立するようになれば、そうしたシステム整備も進むのではないかと思います。
      でも結局人間は何の為に生まれてくるか、と言うところへ行き着きますから、やはり完全な解決策や思想は描けないものなのでしょうね。

      コメント、有り難うございました。

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