私が漆の世界に弟子入りしたのは昭和５３年（１９７８年）の事だったが、当時輪島塗業界は飛ぶ鳥を落とす勢いで、弟子の募集なども沢山有って、そこでどこの漆器店（塗師屋）へ入門するか迷うほどだった。
つまり当時の漆器業界は売り手市場だったのだが、私を含め多くの者が職人の道を目指した動機は「儲かるから」或いは、「食べていけるから」と言うものであり、そこに漆の崇高さなどを求めていた者などいなかった。
事実私がどうして修行させて頂いた親方の門を叩いたかと言えば、面接で「カツ丼」を食べさせてくれたからだった。
そして当時の輪島塗の世界はみんな怒っていたが、それも良い事で怒っていて、弟子の私は恐かったがとても有り難い気持ちにもさせられたものだ。
親方の使いで蒔絵師の所へ仕上がった物を受け取りに行った時、その高齢の日展作家は上がって茶でも飲んで行けと言ってくれたが、急いでいた私はそれを遠慮した。
すると「何だと、俺の茶が飲めんと言うのか・・・・」、大作家がそうポツリと言うのである。
慌てて前言を撤回し、お茶を頂く事になった私にその作家は「若い者が遠慮していてはいかん」と言って、笑って菓子とお茶を出してくれた。
また輪島塗には六職と言う分業区分があるが、この中の一つ「ろいろ」と言う漆器表面に綺麗な艶を出させる仕事をしている親方の所へ行った時も、品物を受け取って帰ろうとする私に、１０本以上も有るひとふさのバナナを持って来て、「これを食え」と言うのだが、やはり遠慮してしまった私にその親方は「何だと家のバナナが食えんってか・・・」と言う事になり、私は品物とバナナを抱えて帰途に付いたものだった。
あれから３５年の月日が流れ、そして私の周囲の人々は随分洗練されたものとなり、今ではみんなが優しくて上品で有り、尚且つ漆器を語れば「良い仕事」、「永遠に勉強」と言う具合で、漆器や漆が好きでなければこの道を目指してはいけないような物言いになってきたが、何かが間違っているような気がしてならない。
洗練され優しくなった言葉は責任や力を失っているような、言葉は優しいが現実にバナナをくれる人がいないような、或いは集まって業界の不況を嘆きながら何もしていないような、そんな気がする。
こうした年齢になってしまうと誰も怒ってくれる者がいなくなる。
それ故に自分が恐くなる。
「馬鹿者が、お前のような者が職人を名乗るな、人の迷惑だ」、額に汗して仕事をしていた先達たちに私はそう怒られてきた。
在りし日の彼等がふと見せた笑顔を思い出すに、今の自分の力の無さに、知らぬ間に落涙している自分がそこに在る。
当時、大ご馳走のカツ丼とバナナに釣られた（笑い）
まあ、泣くことはないでしょう、きっと尊敬する先人にも晩年に、似た感慨を持った方がいらっしゃるかも知れません。
自分も有るべき様に有る訳じゃなく、有りの儘に有るんだと、言い聞かせたりします。
昔、外地のサイトで機材の受け渡しを責任者としてやり始めた、駆け出しの頃、
色んな階層の人からの、「お茶」のお誘いを断ることが多かったのですが、
ある時、「偶にはイエス、サンキュウと言え」と言うことで、ご馳走になりました。
会議では分からない、人の優しさや本音のようなものから、親身のご忠告、現地の考え方、その他、色々分かるようになり事が多かったです。
怪しげな食べ物でも昼食後直ぐでも、それなりに、お誘いを受けるようになり、色んな人々と、暫く時間を共有しました。仕事も首尾よく進む事が多くなった気がします。
下心を持っちゃいけないでしょうが、見ている人は見ていて、「お茶」に誘ってくれれば、本当に話して、公式見解とは違って、厳しいながら、楽しく仕事ができる事が多くなった気がします。
ハシビロコウ様、有り難うございます。
現代社会は言葉は綺麗で滑らかですが、人が何を考えているかが解らない時が多いですね。
しかし昭和と言う時代は行動と言葉が一致していた、或いは一致させようと努力出来た時代だったと思います。
職人の世界では滑らかな言葉使いはむしろ敬遠され、行動や仕事こそが評価されたものでした。心は行動だったのですが、この心が失われると「心」を使った言葉が増えてくるのかも知れません。東日本大震災などの時も「心」や「絆」と言った安易な言葉が横行しましたが、現実には５年経っても復興はおろか、東北は衰退の一途と問題を抱えたままです。そしてこうした心を表す行動の中でも「食」と言うのは大きな影響を持つもので、なんだかんだ言いながらも一緒に食事を取れば、それまでのわだかまりが無くなったりする時が出てきます。
この意味で一緒に食べ物を食べると言う事は、言語以上に大きなコミュニケーションと言えるのでしょうね。
コメント、有り難うございました。