「漆の顔を見る」

黒漆の中に入っている水酸化鉄、朱色の中に入っている水銀朱もそうだが、これらは分子的には粒子で有りながら、その分子の細かさゆえ、漆が乾燥するまでの時間に完全沈殿する事ができず、漆の表面層近くにまで乾燥固定されて滞留する。

漆の色は基本的には茶色が混じった半透明色であり、しかしこの半透明色は透明に向かう半透明色である。

この為漆には色が無いものと概念しなければならない事から、漆が塗りあがった調子を見る時、近年の漆器知識人の中には「漆の色を見る」などと、もっともらしい事を言う者も存在するが、古来より漆の調子を見る事を「漆の顔を見る」とした歴史的な表現の方が漆の概念には近い。

滞留した色素が太陽光や蛍光灯、或いはLEDの光を漆の層の中で乱反射させ、そこから柔らかい光の層が複合的効果を持って表面光沢を形成する漆の光沢は「色」と言う表現では言い表す事ができないのである。

生漆の場合、確かに塗った直後は漆によって茶色の深さは異なるが、1週間もすればその色は殆ど同じになり、この漆の色は環境に拠る変化と時間に拠る変化であり、生漆の色はどのような漆の色も基本的には同じで、日本産の漆でも同様、最後は透明になろうとするものなのである。

従って漆の色に拠ってその漆の性質を知る事はできず、中に含まれる微粒子の乱反射に拠って、或いは艶のある成分を含むか否かの区別は有っても、色に拠ってその漆を測ることはできず、ここで「漆の色を見る」と言う表現では如何にも浅い。

漆の表面光沢の簡単な原理は「メタリック」に近い。

メタリックの場合は塗料の中に重く鏡のような反射をする微細粒子を下に沈殿させ、これに拠って入射光と反射光の複合で塗膜を立体的に見せる塗装方法だが、このメタリック粒子を色素に置き換え、しかも無段階に色素の反射光と入射光が入り乱れた状態が漆の表面光沢と言える。

もっと分かり易く言うなら、例えばギアが有って変速段階が有るオートマティックの自動車と、このギアが物凄く細かくて、しかも変速が何百もの段階を持っていたら、後者の場合運転している人間は変速の衝撃を全く感じずにギアが変速しているように感じる。

この無段階変速が漆の光沢なのである。

最後には透明に向かうものに色は無く、ここで見ているものは、厳密に言うなら漆の中に含まれている不純物や添加物、イオンや、光線の「在り様」を見ている事になる。

それゆえ、漆の光沢を見ている時は周囲の環境と、それに対して漆がどれほど乾燥を進捗させているか、漆の中に何が含まれているかを総合的に見ている事になり、連続性の一瞬を見ている事になる。

古くから伝わる漆塗りの技術では、こうした事を経験と敬虔から直感的に概念し、それゆえ「漆の顔を見る」と言う表現が出現してきたのであり、これが現代に至って「色を見る」と言う表現が出てくると言う事は、それだけ漆と接する機会が少ない、或いは平面的な知識だけで考える者が増加していると言う事なのだろう。

漆には色んな顔がある。

人間と同じように穏やかな時もあれば、やんちゃな時もある。

自信なさそうに見える時、或いは「どうだ」と胸を張っている時も有れば、静かに佇んでいる時もある。

しかしそれらは必ずしも漆独自でそうなるのではなく、温度や湿度、また太陽が出ているのか曇っているのか、雨が降っているか、寒いか暖かいか、それに塗った者が焦っているか落ち着いているか、彼に金が有るか無いか、家族が円満に暮らしているか否か、と言う周囲の環境に拠って変化してくるものでもある。

漆の顔を見ている職人は、そこで何を見ているかと言えば、もしかしたら自分自身の在り様を見ている事になるのかも知れない・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 最近は、馬○な上司の顔色を窺いながら仕事をしないと、遠方に片道切符で駐在の硬直した社会のようです(笑い)
    生理的微笑は、人とチンパンジーに有るだけじゃなく、ニホンザルにも有るらしいですから、そのものが、本来的に持っている事を、しっかり見て判断することが必要な事と思います。
    物の色は、光の反射で分かるわけで、そのもので分かる訳じゃない、と言う事もあり有りますが。
    今、通信技術が発達して、携帯電話が有れば、PCでも良いですが、世界中の人々と同時に繫がることが出来ますが、それは所詮言葉の範囲を大きく超える事は無い。生理的微笑とやや似ていますが、高等動物には特に人間には未だ解明されていない物が沢山有るようですが、微表情という物があるようで、「イエス」と口では言っていても、0.1~0.2秒だか、よく解りませんが、ごく短時間にその人の本来の判断が表情に出るらしいです。それをしっかり見て判断しないと、実際はその人の本来の意図は分からないとのことです。
    自分はポーカーフェイスを自認しておりましたが(笑い)、最近でもないですが、単純らしく、真実の微表情のみならず偶には明(?)表情が出るようなので、気をつけております(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人間が相手を見る時、顔色を見るのではなく「顔」を見なければならないのですが、多くの場合は顔色を伺っている感じですね。「色」ではなくそのものを見ないと自身がどうして良いのかの判断を誤る。色を見るのは初めから方法が決まっている。つまりは保身しかない訳で、ここでは攻めが無い。はじめから自身の主張は存在できないと言う事になり、しいては自分を失う・・・。しかし、自分の心までも自分の言葉で縛る必要は無く、心まで卑屈になってしまっては自分が状況によって発した言葉で自分を縛ってしまう。ここは注意が必要かも知れません。

      話は変わりますが、里芋や柿の事を記事にまでして頂き、有り難うございます。
      自分で作っている物と言うのは自分では価値が分からないもので、喜んで頂けた事は有り難い気持ちが致しました。
      私のコメントでは、勘の良い人は分かるかも知れませんが、一般的には私が芋を送ったことは分からないようなコメントにしておきました。ブログと言う言論的に公正な場で、特定の親密さは他者に取っては面白くないかも知れません。「古徳」に従って、実を虚としました。

      コメント、有り難うございました。

  2. ご高配有難うございます。
    特段危惧はしておりませんでしたが、”微表情”で通じまして嬉しいです。
    心理学が分からない人が多いのは時代ですが、テレビを見ていると、単細胞で時々、突っ込みたくなることが多いです。

    日本人は果物を食べる量が欧米に比べて少ないから、健康のためにもっと食べろ・・
    フランス人は葡萄酒を沢山飲むから、ポリフェノールを沢山取っている、日本人も焼酎より葡萄酒にした方がよい・・
    日本の幸福度は世界でウン十番目だ・・
    全く余計なお世話だ・・
    その割りには、日本人の平均寿命が男女とも殆ど世界で一番だ、との関連については言わない(笑い)
    マスコミや文化人は日本人を不幸にしたがっている、飯の種のようだ。
    経済評論家は、~~で日本の経済はもうお終いだ、って40年前から言っているが、殆どの人は普通に暮らしている。
    偶々、今週末に滅多にない来客が昼に有りますので、”芋煮”を作って振る舞って自慢しようと思っています(笑い)
    誠に有りがとうございました。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      こうしたニュアンスが共有できる事は、本当に嬉しいですね・・・。
      自分の幸運や幸福に対して無神経で有っては、他者との喜びは共有できず、そこでは自身の幸運の表現を控える礼節も大切なのですが、平気で子供や孫の自慢をしている人を見ていると、この人は自分の事しか考えなくてもやって来れた人なんだろうなと言う事を思います。ある種羨ましい生き方ではありますが、どこか悲しさや虚しさも漂う・・・。
      また私は破綻を希望だと思っているかも知れません。新しい秩序の始まりで有って、理想が現実に追いつこうとしているのだと思います。そして人々の暮らしなど破綻も秩序も同じ事で、衆生はいつも苦しい。その苦しい中で時々良い事が有るから生きていけるのだろうと思います。

      分かり合える人に出会えた私は幸運でした。
      いつか芋だけではなく、寒い季節にブリの切り身で一杯やりたいものです・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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