「報道のディテール」

1972年、週刊写真誌「LIFE」が休刊に追い込まれたが、この「LIFE」の休刊は写真の世界にある種の転換期を予見させるものとして、さまざまな波紋を社会に投げかけた。
すなわちそこに垣間見えるものは「LIFE」などの写真誌が中心となって果たしてきた、報道写真のメディアとしての役割、その衰退である。
ちょうどテレビ時代の到来、その全盛に向かう時期と重なった報道写真の世界は、どうあってもその即時性の観点から、テレビ報道に対抗できないと言う、悲観的な雰囲気になって行ったのである。

またこうした時代、徐々に動いている映像が日常化し、その中でフォトジャーナリズムは停滞、もしくは衰退の一途となって行ったのだが、そんな傾向にも拘わらず孤軍奮戦していたのは新聞写真であった。
一日も欠かさず世界中の事件や出来事を同時に紙面に展開し、世界情勢の推移を克明に大衆へ知らしめた。
この功績は実に大きなものがあった、だがこうした新聞写真もやはりその即時性と言う問題に直面し、やがてその優位性をテレビ報道に奪われることになる。

そのもっとも顕著な例が1990年8月2日、イラク軍のクウェート侵攻に始まる、湾岸戦争の勃発を伝える報道である。
1991年1月17日から始まった、アメリカ主導の多国籍軍の攻撃状況は、リアルタイムで世界に配信され、私たちはバクダッドの夜空に舞う弾薬の閃光を、そのおびただしい数を、また映像によりまるで自身が建物を攻撃しているかのように見える「ピンポイント攻撃」を、茶の間で菓子を食べながら、コーヒーを飲みながら見ていた。
そして私などはこうした状況に、なぜか罪悪感を感じざるを得なかった。
この瞬間にも攻撃により死んでいく者があろうに、こうしてまるでゲームをしているように、容易くそれを見ている事の罪の意識だった。

人工衛星は常に等しく世界中に映像を送ってきてくれる。
F1レースだろうが、ワールドカップ、オリンピックも、そして戦争や災害などもまるで眼前に起こっているかのごとく、リアルタイムで見せてくれるが、確かにこうした映像の世界に写真は及ばないものがある。
だが、どうだろうか、我々は毎日余りにも苦労をしないで重要な情報を見すぎてはいないだろうか。

悲惨な事故や災害、戦争や飢餓、それに芸能界のゴシップ、凶悪な事件の報道が連日眼前を通り過ぎていく中で、一つ一つの重大な事件が軽薄なものとして処理されていないだろうか。
その起きた事実をこうしたスピードの情報は、どれくらい本質に迫ったディテールで、我々の脳裏に焼きつかせておけるだろうか。

そう考えたときに、私は写真と言うメディアが持つディテールの正確さと言うものに、少なからず憧れをいだいている。
過去の出来事の「決定的瞬間」や感動、一瞬に凝縮された人の表情や、その心と言ったものまで、また栄光と挫折、笑う、泣く、悲しむ、そして怒り、尊敬し軽蔑する、祈り、絶望する・・・、一枚の写真ほどにこうした瞬間をダイレクトに物語り、我々の心を深く揺さぶるものが他にあろうか・・・。

1990年ごろ、話題になった1人の写真家にブラジルの出身者で、セバスチャン・サルガド(1944年~)と言う人物がいたが、今は多分フランスに在住しているかも知れない・・・、彼は世界中のあらゆる問題を克明に記録し、多くの人たちに深い感動と現実の問題点を強く印象付ける写真を世に出した。
その画像はシャープで美しいプリントで仕上げられ、白黒写真の究極と思われるほどのトーンに整えられ、見る者に快感と安心感を与え、また感動させた。

思うに情報の正確さ、画像の力とは何か、それは現実の持つディテールを正確に凝視することにあり、これは写真が持つ最も大きな特性、力である。
つまり静止したシャープな写真画像は、他のどんな映像メディアでも不可能な細部と全体を我々に見せてくれるのであり、報道写真の衰退は即時性と、印刷によるマスメディアを媒介にすると言うシステムに依存して、こうした写真の特性を忘れたために招いた現象であったことを、決して動画の台頭だけがその原因ではなかったことを、サルガドの写真は証明していたのである。

さまざまな情報が錯綜し、その中で大切なディテールは無視され、まるで無表情に流れ続ける現代社会、その情報は質より量、正確さよりも速さ、心よりも衝撃になってはいないだろうか。
ランダムに流れる映像に、我々はその本質を追う間もなく情報に押しつぶされ、最も見なければならないことを見過ごしてはいないのだろうか・・・。
サルガドが写したルワンダの子供の写真、そこには言葉にすることのできない感情までもが、そして見た者が言葉にできない感情ですら写し込まれていた。

情報が氾濫する現代社会であればこそ、情報は決して速度だけではないことを、その1枚の写真に賭ける熱き思いを、今一度世界の報道メディアは大衆の前に示してもらいたいものだと思う・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 日本のマスコミは、公官庁にぶら下がった取材に代表されるのでしょうが、良いところのボンボンが、親の金を使って遊び回っているのに、一丁前の口をきいて、悲憤慷慨している振りをして、実はなにも分かっちゃいない(笑い)みたいな物の様な感じで、イラク攻撃のアメリカ同盟軍を、多国籍軍と言い換え、連合国軍を未だに国連と称して、その掌の上で、踊っているだけなのに、それされも無自覚。
    写真を撮っている暇が有ったら、1人でも救えと言う議論には与しないのですが、写真を撮る動機が、功名心だったり安っぽい同情心だったりして、出来もしない事を、安全地帯からご宣托してお終いの人が多い。
    真実は細部に有り、微表情にその国家・民族の危機が現れているかも知れません。
    貧乏の定義は兎も角、貧乏国の惨状を報告する写真で子供が写っていれば、自分は、脚下照顧じゃないけれど(笑い)、足を見ます。履き物は何か、裸足か、勿論服の汚さ、衛生度など。劇的な写真も時に必要ですが、状況を代表する表情が有れば、人を突き動かして、少しは助けられるかも知れない。
    同じ時代に生まれて、ちょこっと場所が違うだけで、空腹で、病弱で、不衛生で死んで行くのは今流行の自己責任じゃない。
    未だ若いときに、沢田教一はまともな写真家だと思いましたが、直ぐに死んじゃいました。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      多分、この世に真実などと言うものは無いのでしょうね、私はそう思います。
      有るのはこの眼前に広がる現実のみ、ただこの現実を人がどう見るかと言う事なのだろうと思います。その意味であらゆる事象は全てが鏡のようなもので、この鏡に写る景色の近いものが多ければ、それが民意や天意と言う事になるのかも知れません。だから人間が真実を見ようとするならそこには何もなくなるか、或いは全ての事が入って来るだろうと思います。報道の使命はこの「時」を見せる事ではないかと思います。今こう言う事が起こっていて、こう言う動きや、こうした考え方が在るんだよと言う事を世に照らし、そこから人々が道を探る為の灯火であるべきだろうと思いますが、仰る通りサラリーマン記者の御用提灯記事ではこれに及ばない。インターネットの速度に行く先を失い、その速度至上主義に踊って一緒に陥落の道を辿っています。日本は今何もかも先が見えない。こうした時こそ経験や時代を重ねた者が道を示し、世に「先」を与えねばならないだろうと思います。その先に希望が在るのか、絶望が在るのかは分からない、だが、そこまで行ってみようぜ、と言う言葉が必要なのだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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