「ふくべに遭う」

新潟県、富山県、石川県、福井県の主に山間部地域だが、「ふくべが来る」若しくは「ふくべに遭う」と言う言葉が存在した。
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ここでこの言葉を過去形にしたのは、既に相当年齢を重ねた者でもこうした言葉を使わなくなった為で、「ふくべ」と言う、どこかで「福」に通じるようなこの言葉の持つ意味は意外な事に「禍」である。
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「ふくべ」とは瓢箪(ひょうたん)「夕顔」(ゆうがお)の別称で有り、瓢箪は禍福どちらにも転ぶものとされ、その因は中の空洞に有る。
古来より日本では空いた空間、穴や空洞には「霊」が宿ると考えられた事から、瓢箪は吊るして措けば魔除けになるが、家の庭に植えると禍(わざわい)をもたらすものとされてきた。
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またこうした「瓢箪」や「夕顔」の皮が持つ堅さに対する表現は、その堅さをして他のものにも転用され、表皮の堅い果実なども「ふくべ」と呼ばれる事が有り、こうした経緯から漠然と「成熟」を過ぎたもの、「老い」すらも過ぎたもの、元は用を成したもの乍それが邪魔になってきたもの、或いは人が何かに執着し過ぎて人としての在り様すらも過ぎてしまった、言い換えれば「付喪神」(つくもがみ)を表現していると考えられる。
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宴席や人の饗宴などでは、基本的には招待した客に楽しんで行って貰いたいが、それにも限度と言うものが有り、例えば後片付けすら出来ない遅い時間まで、周囲の客がいなくなっても残って酒を飲み続けたとしたら、どこかでは招待した家の人から「早く帰ってくれないかな・・・」と思われてしまう。
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この邪魔に思われてしまう事を「ふくべが来る」と表現したのであり、ここでは適当な時間帯までは歓迎されるが、過ぎれば邪魔に思われる為、そうした思いを人に抱かせてしまっては、その時はもとより後々も禍となりかねないゆえ、招待した家人が「どうぞまだ宵の口ですよ」と形而上引き止める言葉に対して「いやいや、これ以上お邪魔するとふくべが来ると困るので帰ります」と返した訳である。
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またここからは高齢者の方には辛い話になるかも知れないが、こうした北陸の山間地のような所は貧しく、為に過ぎたる事を「宿悪」と看做す部分が有り、「ふくべに遭う」と言う表現は長生きを善しとはしない表現である。
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この背景は貧しさと、生活体系の不安定さにあり、打ち続く飢饉や武家公家社会では一般大衆や農民の明日など常に風前の灯火だった現実がそれを物語っている。
即ち蓄財し、孫にまで囲まれて幸せに暮らしていたとしても、その次のひ孫が病弱でせっかくの蓄財も薬代に消え、それが基で家族が互いにいがみ合うような地獄が訪れないとも限らず、また自分は長生きだったとしてもその子供が先に死んでしまえば自身の生活も困窮する。
適当な時期に死んでおけば幸福な一生だったのに、長生きした為に地獄を見てしまったと言う場合、「ああ、ふくべに遭ってしまった」と嘆いたのである。
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だがこれは何か努力して避けられる事だったかと言えばそうではない。
それもまた天の定めである事から、私はこうした場合を「宿悪」と表現する事にしているが、一方順風満帆な人生を人に誇り、そこで奢った在り様の無きように戒める意味も持つかも知れない。
「ふくべ」は基本的には「禍福」である。
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その途中までは有用だったものが、時期が過ぎれば邪魔になる。
これは日本人が持つ古神道の考え方で、道具や家畜に対する畏敬の在り様を示していて、その例が「とが」と言う言葉である。
栂(ツガ)の木は別名「とが」と言い、この謂れは「咎」(とが)にある。
磔(はりつけ)などの処刑にはこの「栂」の木が多く用いられた為、「栂」の語源は「咎」に有るとされていて、古い時代の日本では「とがになる」とか「とがにしてしまう」と言う表現が存在したが、これは「他に罪を犯させるような行為を自分がしてしまう」、「その存在を自分が凶にしてしまう」と言う意味である。
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即ち猫でも犬でも邪険に扱えば、やがては人に警戒心を持ち危害を加えるようになる。
いつか咎めを受けるような存在にしてしまうから、大切に扱いなさい、労わりなさいと言う意味であり、これがもっぱら道具や家畜などに対して使われる場合は、それらを粗末にすれば道具達は祟り神になってしまうと言う意味だった。
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そしてこうした道具や家畜に対する畏敬の念が「付喪神」「九十九」(つくも)の考え方で、「九十九」は基本的に長く存在したものの意味である事から、日本人は長く存在した道具や家畜もまた神と考え、しかもそれが元は道具や家畜である事から、途中までは「福」にして、過ぎれば「禍」としたのであり、一般的に道具は使われなくなると「禍」をもたらす忌み神と考えたのだが、「忌み」はまた畏敬をも含んでいるものなのである。
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鎌倉時代に日本の道具は格段の向上と生産増加を果たすが、その影でそうした道具が粗末に扱われる事を戒める思想もまた発展した。
それゆえ安土桃山時代までは「付喪神」も信仰されたが、これが江戸時代に入り大量消費と共にリサイクルシステムが発展した結果、消費に対する罪悪感が薄れ、そこで現世ご利益の有る神仏信仰に主体が移って行き、言わば後始末的、過去的な「付喪神」信仰はどんどん影を潜め、それが残ったのは貧しい地方の山村だった。
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「ふくべ」は基本的には瓢箪だが、このように複雑な意味を包括し、尚且つ人々がこの複雑な概念を皮膚で知っていた訳である。
振り返って現代日本の言葉を鑑みるなら、どんどん一つの言葉が一つの意味しか為さない、文書化できる言葉になってしまってきている。
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10年後には「ふくべに遭う」と言う言葉の解釈が、言語学者によって「瓢箪 や夕顔に遭う」事だと真面目に解説されるのかも知れない・・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. かなり前に、世界の瓢箪の使い方の話を聞いたことがあり、有史以前から使っていたらしい、どんな教訓が有ったかは、残念ながら断然覚えていない(笑い)。
    昔、比較的長命だった祖父さんに、長生きしてお目出度い見たいな事を何気なく言ったら、良いことばかりでもなく、一番辛いのは、友だちがみんな死んで、こちらも弱っているから、会いにも行けないし、葬式にも出られない、って笑いながら言っていました。
    ES・モースが驚いていましたが・・アメリカの犬は、人がしゃがむだけで、石をぶつけられるのではないかと恐れて逃げるが、日本の犬は、石を投げて遣っても、当たらない限り、不思議そうに見ていると、詰まり、日本人はそう言う虐待をしたことがない(笑い)。
    熊手でも、達磨でも縁起物は、一年で買い換えるのは、ふくべ似合わない智恵かもと、これを読ませていただいて、閃きました(笑い)。
    生活や習慣が変化して、人間性や言語の意味が変化・変遷するのは止むええ無いでしょうが、墜ちるところまで墜ちないで、人が生まれ持った、経験で学んだ、智恵が広まると良いのですが・・同じノーベル平和賞を貰った、ダライ・ラマ14世とアウンサンスーチーとでは、目指している物が、逆に見えます。
    ロヒンギャに対する言動を見ればそれは鮮明に浮かび上がる気がします。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      家の父などは体の右側が動かないのですが、それでも今までの習慣からか、天気の良い日は杖を付いて近くの畑まで散歩し、左手で少し草をむしったりする事が有ります。そしてこうしたときに使った鎌までは片付ける事が出来ないので畑に放置したままになってしまいます。その鎌がやがて草に埋もれ、翌年トラクターで私が畑を耕していると、トラクターの歯にカチンと錆びた鎌が引っかかる。これがまさに「ふくべに遭う」なのだと思います。用事が済んだら片付けておかないと、やがてそれは禍になって帰ってくる。どこかでは「過ぎたるは猶・・・」なのですが、それとは少しニュアンスが違う、将来の危険を避ける方法のような気がします。人間も同じで用事が済んだらさっさと捨て、アフターをしないと、やがてその事が必ずどこかで自身に引っかかってくる。小池知事などは比較的このパターンの人のような気がしますが、こうした人は先だけを語り実務はあまり進まない。将来片付けて置かなかった錆びた鎌に自身の足を引っ掛ける事になるような気がします。また引き際を誤らない事、いつまでも自身が主として君臨する事を思わないと言う事もあるでしょうが、人間にとってこれが一番難しい・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

  2. 昨日の来客に怪しいエスニック料理と日本の季節料理直球のイモ煮を振る舞いました。
    アナウンス効果が発生しないように、特段何も言わず、お椀に入れて、出しました、「アラ美味しい」と言う事で、お鍋は目の前にあり、タップリあるのは知っていまして、お代わりを直ぐに要望されました。うけました(笑い)
    次は、粗食の日に成る可能性有りと説明、その時は、甘くして、好きなだけの量は準備する予定ですが、しおむすびと燻りガッコ(我が郷里の漬物で、半燻製のタクアン)とお茶だけ(笑い)。
    有難うございました。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      芋がお役に立てて、私も嬉しい気持ちがします。
      これから寒くなって行きますので、温かい料理と酒は何よりの幸福です。こちらでも連日芋の煮物、大根や練り物、油揚げなどを入れた「おでん」を作っていますが、カレンダーを見れば明日からもう師走です。
      ただ無為に時だけが過ぎて行き、得ようとして失って行ったものの多きを思います。
      何とか落ち着いた年の瀬を迎えるにはもう一頑張りしなければなりませんが、毎年こうして同じような事を思いながら、何の進展も無く同じことを繰り返している事が、恐ろしくもあり、これしかなかったと思う気持ちもありで、なんとも表現しようのない思いがします。

      コメント、有り難うございました。

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