「銀河が舞い降りてきた」

中世の頃までヨーロッパでは数学と幾何学が同じ意味で使われていたが、数は正数しかなく、ここに0の概念が無かった。
しかしアジアには古くから0の概念が有り、0の概念の彼方に「マイナス」が有り、こうした0の概念の歴史が浅いヨーロッパ社会は、今に至っても引き算やマイナスの概念が若干弱いと言われている。
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数学は一般的に政治や社会、文化など我々の生活に密着した部分では、余りなじみが無いように考えられている。
だがもし事業を起こすとき銀行から融資を受け、そこで利益を出して返済するとしたら、ここに0とマイナスの関係が認められていなければ、そもそも融資と言う事も存在できないのであり、0とマイナスの概念が薄い者が事業を起こすと、そこには融資された金額と利益で出された金額の概念的曖昧さが出る。
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即ち金利と一定の元金を払っていれば、そこで銀行から文句がでなければ、法的に問題が無ければ0に戻すと言う考え方が彼方に飛んでしまうのであり、欧米型資本主義が「拡大」しか無い事、或いはいつか0にしなければならない概念が弱い為、その理論を中心に経済が組み立てられた世界経済は常に矛盾の中に存在してきたのである。
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また同じように文化の中で、その基本的文化様式である「賭博」でも、西欧の「コントラクトブリッジ」と東洋の「麻雀」では麻雀にはマイナス換算が有るが、コントラクトブリッジでは基本的に「持ち金」が限度である事から、0とマイナスの概念が無い。
即ちここでは「無限」に対する考え方の違いが出てくるのであり、この事が片方には「形なもの」を理解させ、その一方には「形なきもの」に対する理解を薄くさせるのである。
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そして数学と言うとどこかで完全に割り切れたり、ある種きっぱりと結論が出るもののように考えるかも知れない。
しかし、実は数学でも基本的な事は何一つ解明されてはいない。
例えば「実数」と言うものを取って見ても「RDedekind(R・デデキント)が切断の概念を入れて「有理数の隙間に無理数を埋めて連続したもの」としたが、これが実数の全てを解明しているわけでは無い。
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「乱数」も基本的には「非規則性」と言う事になるが、これを厳密に考えるなら「乱数」が存在できない程難しい条件であり、円周率の小数点以下の数字配列も「乱数」の一つとして考えられているものの、それが乱数で有るとされる根拠は「人類がそうだろうと判断している」だけの事だ。
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それと実数(real number)に対する虚数(imaginary number)に付いても、マイナスとマイナスをかければ正数、つまりプラスの数になるが、三次方程式の解でイタリアの「Niccolo Fontana Tartaglia(タルタリア)が開発した解法では実数の解が有るとき、「複素数」(cimplex number・実数、虚数を組み込んだもの)を経由しないと求める事ができなくなる。
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つまりここではマイナス1とマイナス1と言った具合に、同じ数字をかければ必ずプラスにしかならない原則の他に、同じ数字をかけてマイナスになる概念が必要になるのであり、数学がこうした場面で例外を設けていくなら全ての数や解の公式は例外になってしまう。
そこで、その理論や原因はともかく発生するものを認めて概念するのが数学であり、ここで生まれた「i」の概念は同じ数をかけてマイナスになる現実を指している。
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だが同じ数をかけてマイナスになる概念を解説する事は難しく、同様に円周率「π」や「自然対数の底」(base of natural iogaritm)・「e」、「2、7182818・・・」が何故存在しているのかもその理由は解明されていないが、こうした傾向は科学に措ける物理学、化学、幾何学に付いても同じであり、しいては人間やその人間の感情、社会や政治、文化、芸術など森羅万象、ことごとく同じである。
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秩序と見えるものは実は非秩序の一つであり、その非秩序、混沌に完全な混沌を見ることはできない。
人間はその眼前に広がる現実を、常に概念を広げて認めていかねばならない。
人も宇宙も数字も、今この瞬間も「動いている」のである。
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最後に2004年、第一回「本屋大賞」を受賞した「小川洋子」さんが「博士の愛した数式」で、オイラーの公式」(Euler s formula)を使い、実に美しく数学を描いているので紹介しておこう。
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「どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する」
「彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1を足した途端、何の前触れも無く世界が転換する。全てが0に抱き留められる」
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e」と「π」、「i」と言う、それ自体が宇宙のような組み合わせが最終的には「-1」と言う整数値になるとは・・・。
まるで広大な大銀河が雪の結晶となって手の平に舞い降りて来たかのようだ・・・。
                                                      T,asada
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The holy night, I give this talk・・・」
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 一直線に実数のみならず、虚数やら複素数やらみんな混じっていると言われた辺りで目眩がして、学校の数学が面白くなる前に挫折してしまいましたが、仕事中は数字に強いとよく言われました(笑い)。
    数学者は、良く美しいと言う風に形容していますが、岡潔も藤原正彦も同じような事を言っていて、双方とも文化、特に日本の伝統文化に強く、数字が好きそうな日本の財界人や経済学者が、経済が道徳に近いだろうに、金勘定だけで、猿に近い匂いがするのとは、違う気がします。
    日本は江戸時代に和算で、レベルそのものは、西洋やイスラムともそれ程ひけを取らなかったと思いますが、明治以降、自然科学的学問が大量に流入して、違いに気付く前に、その量に圧倒されて伝統を忘れた様な気もします。
    数学は実は、人間が作り出した或る種の虚構で深遠な宇宙の真理の一部を誤解しながら齧り取っている気もします。
    でもまあ、ユークリッドが、プトレマイオスに学問に(数学~幾何)に王道無しと、ウン千前年も前に言っていたのは、その又本質を突いているようです、今はとっても安易に使われているのでしょうが。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      数学は言語に良く似ていますね・・・。
      自然のあらゆる事象を、みんなが同じフレームで見れるように統一した形、それは必ずしも完全ではなく、もしかしたら全体の中のほんの一部かも知れませんが、皆が理解できる記号だと思います。それゆえ記号事態には本質を探究する力はなく、あらゆる事象を統一フレームに押し込める為、究極は矛盾したり解からなくなってしまう。しかし、こうした自然の事象を人類は良く何とかまとめてきましたね。そこに在るのは真っ白な画用に引かれた一本の直線のような美しさが有ります。人類の社会は矛盾に矛盾を重ね、出現してくる現実を歪め、言葉で逃れ続けて来たにも拘わらず、そこに作られた記号、数学は逆にどこかが美しい。私が物理学や数学が好きなのは、そこに見える透明感や美しさが感じられるからでした。
      それにしても、もう本当に年も押し迫ってきましたね。
      毎年これから2月くらいまでが一番忙しいのですが、年々怠惰になって、「あいだみつを」の「いいじゃないか、人間だもの・・・」に逃げる事が増えてきました(笑)
      何とか、渇を入れて年末年始をクリアしたいものです。

      コメント、有り難うございました。

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