「住民投票の意義」

 

流し素麺を食べている時、上に座している者は下に座している者の事を考えて、自分が掬う素麺を遠慮する、この考えが神の概念に由来していた古代日本、しかしやがて力は正義なりと言う時代、「俺が、私が先に来て座っているのだ、好きなだけ掬って何が悪い」と言う時代に変遷し、やがて力、武力がこの調整を果たして行く時代へと移り変わった。

すなわち武力は上に座する者と下に座する者と言う意見の対立に対し、その力の権威を客観性に求めて行く事になるのだが、この客観性の訴求は「調整」に由来したものであり、この事から政治の本質は「調整」と言う事が出来る。

しかし日本は太平洋戦争に敗北しアメリカ合衆国に拠って自由貿易、資本主義の国家へと仲間入りした時点で、国内の主力産業であった農林水産業は事実上価格競争に追いつかず崩壊し、この時点で日本の地方経済も崩壊した為、工業に拠って得た収益をこれらに還付する形態の経済へと陥落した。

つまり日本の地方経済は社会主義的計画経済、中央から助成される金で経済を動かす仕組みにならざるを得なかったのだが、この事は何を意味していたかと言えば、本来は「調整」であるはずの政治、地方行政が事業主体と移り変わって行ったのであり、ここに地方行政は社会主義と全体主義が入り混じったような行政支配社会となって行ったのである。

本来は流し素麺と言う自由経済の事業主と上に座る者、下に座る者との調整を政治と呼ぶのだが、こうした日本の地方経済崩壊の在り様は、行政が流し素麺のオヤジをやっているに等しい形を発生させ、ここに対立を生じせしめた時は、流し素麺の全てを支配する形になってしまったのである。

行政はもはや政治に必要な「客観性」、「調整」と言う能力を失い、ここに事業主体、言い換えれば対立の一方の当事者となってしまっているのであり、この現状はバブル経済の崩壊、その後現実的問題となってきた少子高齢化に拠ってさらに増長され、力を失い、経済の全てを行政に支配された民衆は言葉を失った「沈黙」へと陥り、この沈黙を民主主義と錯誤した地方行政、地方議会は、やがて支配の根拠となっていた中央の財政出動が減少すると、支配体制が崩壊し始め、ここにキリシタン弾圧時のような「踏み絵」に拠って民衆を区別するような形になって行き、これは日本のどこでも同じ状態である。

石川県輪島市では門前町大釜地区が限界集落から消滅集落へと進行し、ここにこの地区の住民は集落維持を断念し、産業廃棄物処理施設建設業者に村を売却する方向へと動いて行った。

実に現実的な判断では有るが、しかしこの契約は川の下流にすむ住人には全く知らされておらず、世界農業遺産の指定も受けた奥能登地区のあちこちから反対の声が上がった。

これに対し、選挙も控えていた輪島市議会は市民の声を恐れ、2006年、2011年の2回に渡って施設建設反対の意見書を採択しているが、何故か2016年6月、この産業廃棄物修理施設の排水を意識した公共下水道接続に関する議案を可決する。

産業廃棄物処理施設建設に反対しながら、その施設が流す排水の接続許可が可決された訳で、これでは産業廃棄物処理施設建設は賛成なのか反対なのか、議会の方向性が見えないまま、輪島市議会はその後何の説明も行わなかった。

つまり、議会は議会制民主主義の基本である、質疑応答に拠る審議に拠って、議論を通して民衆に理解を得ると言う、議会制民主主義の本質を放棄したのである。

流石にこうした事態に疑問を感じた市議会の一部会派と輪島市民は、以前から処理施設建設に反対していた市民組織を中心にして住民投票に拠る市民参加を訴え、集まった署名は住民投票に必要な有権者数の6分の1をはるかに超える、必要数の倍近い署名が集まった。

ここに輪島市では産業廃棄物処理施設を巡る住民投票が成立したのだが、何故か奇妙な事が起こって来る。

以前、住民投票条例を作ったのは私だと豪語していた輪島市長は「住民投票に行かない事も選択肢の一つだ」と発言するのであり、これに対して地方新聞は「邪道」だと書いているが、輪島市議会でも「議会の決定こそが議会制民主主義だ」と言う無茶苦茶な発言が飛び出すのであり、1月に年頭集会が有る各地区でも、用もないのに市議会議員が現れ、住民投票に行かないようにと発言していた地域が存在した。

議会は産業処理施設建設反対を撤回しないまま、いつの間にか賛成の方向になっていた事を説明しない状態で、住民投票は有権者の半数の投票が無ければ成立しない事から、「住民投票には行かないでくれ」と言った訳である。

確かに有権者数の半分が投票に行かなくても、要件が満たされない住民投票は非成立となる。

しかし住民投票に行かない事と産業廃物処理施設建設賛成とは同義ではない。

これが反対の立場で市民が住民投票に行かないでくれと運動すれば、議会や市長は民主主義、権利の蹂躙だと騒ぐだろう。

その事を忘れている。

産業廃棄物処理施設反対は一つの動議であり、住民投票は輪島市が制定した市民の権利であり、ここに住民投票に行く事を制限する様な発言は日本が批准している国連憲章の精神に真っ向から対立するものである。

産業廃棄物建設に賛成すも反対するも住民投票で決すればよいので有って、棄権を推奨するは、市議会議員選挙にも行かないでくれと頼んでいるも同じなのである。

輪島市市議会の今回の態度の背景には、いずれは施設建設は決まっていたが、市民の手前反対しておき、やがて時期を見て適当な理由をつけて建設してしまえば良いだろうとと言う考えがあったように思うが、その際先に排水の確保を行おうと隣接する志賀町に産業廃棄物処理施設の排水を打診したが、志賀町は住民上げてこれに反対した。

それで仕方なく輪島市議会は強引に輪島市の下水道に接続を許可する議案を可決したのかも知れない。

輪島市の財政は能登半島地震の前に、既に崩壊寸前とも噂されていた。

それが震災に拠って震災復興費用で何とか今まで繋いでこれたものの、このままでは財政の破綻が眼前に迫っている、いや既に破綻が始まっているかも知れない。

ここに産業廃棄物処理施設を受け入れれば国から150億円とも言われる補助金が舞い込み、トラック1台当たり75000円の金が入ってくる事になる。

これで市長在任中は財政破綻は免れる、次の市議会選挙前の財政破綻は免れると考えるのは無理からぬ事だが、現実にはこうした施設を受け入れてもやがていつかの破綻は免れない。

基本的に財政が苦しいのなら、こうした理由だから産業廃棄物処理施設を受け入れたいのですが、どうですかと市民に意見を求め、市民も財政が苦しいのなら自分たちだけの事を言っていても仕方ない、ではこうした安全基準だけは満たしてくださいよ、などと言う話し合いが必要だった。

だが既に追い込まれた財政は行政も議会すらも利害関係の一方の当事者に追い込んでいた。

ここに議会や行政は一方の当事者となって民衆と対立しまった事で調整に関する客観性、総合的に言えば権威を消失している。

日本人は「多数決」と言うものの原則を全く理解していない。

「多数決」は勝った者が何をしても良いと言う原則ではない。

今般の輪島市の住民投票にしても、賛成が多数になっても反対が多数になっても、勝ったほうが負けたほうの意見を全く聞かずに事を進めれば、それは「専横」と言うものである。

多数決に勝った方は全ての権利を得て、負けた方は完全に否定されるなら、負けた方には「死ね」と言っているか、或いは出て行けと言っているも等しい。

これではただでさえ人口が減っていく過疎地域は一気に半分の人口を失うか、或いは半分の人口の協力が得られなくなる。

本来なら協力して事に当たっても乗り切れない難局に向かって仲間割れしているのでは、眼前の厳しい現実は更なる民衆の沈黙を増長し、その地域は黙ったまま消失して行くだろう。

多数意見となった者達は、その多数であるが故に少数意見と協議し、共に難局に対峙していく事が多数決の原則と言うものであり、この協議や少数意見との議論こそが議会制民主主義の根幹である。

怠惰と現実を先送りしているEUは停滞し、イギリスはEUを離脱したが、これはどちらもアリストテレスの言う民主制から生まれる衆愚であり、アメリカも今回大統領選挙で民主制が行き過ぎて民主制から派生する独裁に近い状態となった。

バランスの保たれた民主主義は世界的にも失われれつつ有る。

この中で奥能登と言う過疎の小さな地域、世界農業遺産に指定された地域が、民主主義の原則、多数決の原則を今一度住民全員で示すなら、それは太陽の光に一瞬きらめく、大海の底に沈んでいる1粒の砂金の光にも等しく世界に映るだろう。

輪島市に在住する人は、産業廃棄物処理施設建設賛成も反対の者も2月19日には是非住民投票へ参加し、投票と言う市民権利に拠って賛否を決して欲しい。

そして賛否が決したら、多数意見の者は少数意見となった者達と協議し、少数意見に納得してもらう努力と、少数意見をどう反映するかを話し合って、先に待っている奥能登の過疎と人口減少問題に対峙して欲しい。

住民投票をただの対立と専横にしてしまうか、未来の希望にするかは市民の皆さんの手にかかっています。

輪島市をどうか宜しく頼みます・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 流しそうめん、一度も行ったことが有りません。
    上流で食べると下の方が気の毒だし、下流で食べると、人相が悪くなりそうだし、全ての箸を逃れたそうめんの運命も知りたく無し。そもそもそうめんを流す意味が分からない~~♪
    本当に食べ物無ければ我慢するだろうし、充分に有れば必要によって分ければよいし、不足していたら、取りあえず、関係者が個体を維持できるように、大震災の時のように、分かち合えば、いずれ事態は運が良ければ改善するだろうから、何でワザワザ、面倒な事をするんでしょう、でもまあ、楽しめる方はいるのでしょう~~♪
    ついでに言えばどんな心理状況になるか、どんな方が好んでいるか、実は多少興味が有ります(笑い)
    実は回転寿司は割りと好きで行きますが、勿論@¥100のです。行く度に、好物の1~2皿を除けば後はなるべく毎回違うもの食べる様にしていますが、多分20種類ぐらいは、全く食べる気がしません、勿論食わず嫌いで、人もそうですが、一生駄目かも、想像だけで食欲が湧かないものもあるし、見てくれで、自分で考える食べ物の領域を越えている感じがするものもあります、それでも1皿ぐらいは、偶に冒険を心掛けております。

    人生日々是修行(笑い)

    果たして住民投票の結果は如何に・・・・

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      実は私も流し素麺は食べた事が無く、その理由はハシビロコウ様と同じでした。大体そんな面倒な食べ方では腹一杯にはならず、働けない。お公家様の蹴鞠の優雅さで素麺を食べる素養は無い訳で、ここからはハシビロコウ様を超えている無茶苦茶さ加減かも知れませんが、私は回転寿司ももう20年ほど行っていなくて、そもそも昔、祖母や母が仕事は大勢で、ものを食べるときは小勢(こぜい・少ない人数)で、と言っていたので、ものを食べるときは出来るだけ遠慮しなくて良い1人が最も素晴らしい・・・と思っているかも知れません。そのため焼肉、バーベキュー、宴会、カラオケは全て行きたくない状態で、そんな事をしているくらいなら寝てた方がはるかに楽しい・・・。
      と、人に言うと、みんなため息を付いて、それから後は何も話さなくなる訳です(笑)
      基本貧乏人が板に付いているのでしょうね。

      さて住民投票ですが、どうなる事でしょう。
      これが終ったら地方自治法を使って市議会解散直接請求でも始まると良いのですが。
      住民投票と言う事は、議会が何もしてない事を意味していて、その意味では議会はと~ても恥ずかしいはずなのですが、恥ずかしがっている市議は殆どいない。いや、議会を解散させても、次に市議になる人材がいない・・・。
      春秋戦国時代の賢者たちが国が栄えると言う事は、人口が増える事だと言い切っていた事が身にしみますね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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