「ストリップ」

表題から何かエロい話かも知れないと期待された方もおいでる事と思うが、ご期待に沿えず申し訳ない。

今日は輪島塗の「布着せ」(ぬのぎせ)の話をさせて頂こうと思う。

素地を補強させる為に漆で寒冷紗(かんれいしゃ)や麻の布を巻いたり、張ったりする事を輪島では布を着せると言ったが、布をかけるとも言いながら、布を着せると表現したイメージ力は中々風情が有る。

だがこの布着せ、輪島塗の歴史の中で常に絶対性を持った技法ではなかった。

むしろ数の点から言うなら、布着せされた輪島塗の方が少ないかも知れない。

大量、低価格製品の殆どは布着せされてはいなかったからだ。

この1回の工程を省くくらいでそれほど価格が抑制できたのかと思われるかも知れないが、実は布の厚みと言うのは、例えば製造されて30年くらい経過した輪島塗では、そこに厚みとして残っているのは布が半分、上塗り漆が半分しか残っていないものだ。

あの地の粉を使った厚い下地はどこへ行ったのかと言うと、研ぎ整形のときに削られ、経年劣化に拠って水分が無くなると、厚みとしては残れないのである。

それゆえ布を張った時には、それを張った部分と張られていない部分に段差が生じ、これを「惣身」(そうみ)と言う荒い粉を混ぜた下地に拠って埋める作業が必要になるが、この惣身が厚いと後年、製品になってからの劣化が激しく、製品強度を落とす。

従って段差を埋めながら、厚くない事が求められるが、結果としてこうした状況から惣身だけは埋まらず、輪島塗の下地は有る意味「布着せ」の段差を埋める為の工法とも言えるのである。

布を着せていない輪島塗は段差が生じないから綺麗に見えるが、強度の点では少し劣る。

また納期に余裕が無い場合は砥の粉下地だけでも、綺麗に整形すれば立派な輪島塗に見える為、好景気で忙しい時ほど、豊かな時代ほど布を着せていない輪島塗が多くなるが、一方極端に景気の悪い時代でも材料の抑制から布を着せない漆器が多かった。

そしてこうした布を着せていない輪島塗の事を、裸下地(はだかしたじ)、或いは「ストリップ」と呼んだのだが、これがなぜそう呼ばれたか説明する必要はあるまい。

輪島塗の職人や塗師屋の親方は上塗りが仕上がった製品を見るだけ、触っただけで布が着せられているか否かを判断できたのだが、これは簡単な事だ。

軽くて厚みが感じられないのに、布の段差が無ければ「ストリップ」であり、重みや厚みが感じられれば布着せされた物と判断できたのであり、この布の段差は上塗りが仕上がっても見ように拠れば見える。

「いやー、綺麗な仕上がりの椀ですね・・・」

「あっ、いあやそれはストリップでして・・・」

「ほう、急ぎ物ですか?」

「全く今日言えば、明日にもくれと言う仕事でして・・・」

親方同士のこうした会話が昔は良く聞かれたものだった。

更に、輪島塗では寒冷紗の代わりに新聞紙や「漉し紙」(こしがみ・漆を漉す吉野紙)や、和紙などを張ったものも作られたが、これらは寒冷紗を使うよりは漆の量が半分くらいで済む為、材料が手に入りにくかった昭和6年から昭和30年、昭和60年代に流行したもので、その効果の程はストリップと全く同じだったが、何も着せていないわけではないと言う、中ば自己弁護の気持ちからそう言う技術も発展した。

時々古い漆器を修理していると、こうした寒冷紗の代わりに新聞紙を着せた漆器も出てくるが、何も着せないよりは例え新聞紙でもと思う親心を少し感じてしまう。

材料を削らなければならなかった中で、何とかしようとした親方や職人の姿が垣間見えるような気がするものである。

 

ちなみにこうした新聞紙の着せ物だが、面白い事に新聞紙の厚みはしっかり残っていて、やはりそれは寒冷紗よりは薄いが、下地の厚みのようになくなってしまう事は無いのであり、ついでに上手に剥がせば書かれている記事が読めるものも存在する。

 

布や新聞紙は「実」で有り、塗料、液体である漆はどこまで行っても「虚」なのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. イザベラ・バードの「日本奥地紀行」で蝦夷地を旅行した時、アイヌの集落を伝って移動していましたが、アイヌ家屋にお世話になったときに、家具調度は余り大した物が無いのですが、伝承された家宝の様な形で、漆器が何点もあり、とても大事にはされていたのですが、もう古く傷んでいたものもあり、入手経緯は言及されていませんでしたが、技術が有り知識がある人が見れば、何処のどんなものか、どう言う交易レートできたかも分かったかも知れませんね。
    北海道に行くことが有れば、アイヌ民族博物館、その他輪島塗のみならず漆器が有るところを、訪ねて人間の営みを想像するのも面白いかも知れません。
    アイヌ自身は漆器については殆ど知識は無いような書きぶりでした。或る意味自然物ではないので、何かしら神秘的なものを感じていたのかも知れません。
    もしかしたら、壊れたところから襖の下に貼られたような、怪しい絵が出て来たのかも(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      伊達政宗公が妻に輪島の職人に作らせた漆器家具を贈っていますから、既にこうした時代、沿岸航路を使って、或いは陸路から漆器の交易が存在した事が解りますが、北海道も江戸時代後期には既に海路に拠る交易が始まっていました。ただ、アイヌの人たちに漆器が入っていくのは幕末かも知れません。東北や北海道へ持ち込まれた大名や維新の役人が持っていたものが散逸したケースが多くなるのではないかと思いますが、一方、例えば縄文時代のように温暖な気候の時代には、若しかしたら北海道の方で独自の漆器が使われていた可能性が有ります。北海道の開拓団は富山県の人が多かった。富山県は隣県ですが、今でも北海道で私の土地で使っているような方言が残っているのを聞くと、何か感慨深いものが有ります。また私が漆器の修行中に納品していた先での最北は北海道羅臼町の漁師の方でした・・・。

  2. 昔、標準抵抗器が機材の中に一式含まれて居たことがありました。@¥20万円ぐらいだったように記憶しています。1Ω~x0.1x0.01~x10、x100などで構成されていて、納期は確か半年か一年ぐらい。何故そんなに掛かるかと言えばエイジングして安定化させるためとか、許容誤差に入らないと、初めから作り直しでもう一年かかる(笑い)。
    全部の納期通りに出来たのですが、名前が示すとおり、一種の標準器であり、重量で行けば、標準分銅見たいなもので、こちらはうろ覚えですがE1、2~F1、2、Mとか有って、抵抗と同じで環境も厳しかったですが、こちらはその場の重力も関係して、最後は哲学的命題に(笑い)
    ついでながら、メートル原器(世界に1個)は確かフランスにあるはずですが、今は何かの鉱物のスペクトラムで決定して、こちらも哲学的に。
    大抵の物は納期で色んなものが決定されたりして、実用になればOKでしょうが、第二原器とも言うべき「標準」をしっかりしていないところは、技術開発も、根源的な問題解決も出来ないのでは無いかと思っています。
    ま、大抵は生きているだけで、価値が有るでしょうが、それでも余りに標準からの誤差が大きいのに、恬として、強気な人を見ると、自分は気が弱いので逃げたくなる(笑い)

    1. 人間の作る物で完全なものは有りませんから、全ての物の完成度は「誤差」をどの範囲で収めているかと言う事だと思います。その意味で基準となるものが必要なのですが、一方確かに仰る通り、あらゆる物は用途と納期と言う現実に拠って作られていきますから、統一基準をしっかりして置かないと簡単に製品はいい加減になる。伝統工芸はこの悪い見本のようなもので、輪島塗の今日の周落はこうした基準精度の徹底を怠った事も原因の一つだったかも知れません。皆で「俺が俺が・・・」と自分を高めて行った結果、戦国乱世の群雄割拠状態になり、ここではあらゆるモラルが崩壊して行った。今の人は新聞紙などが張られた漆器を見ると「安物」か・・・と言う事になりますが、ここにせめて新聞紙でも張ろうとした人間の心をイメージする事が無ければ漆器の奥深さもまた知る事は無いかも知れませんね。

  3. 小林薫の深夜食堂、テレビ版の「アジの開き」だったか、リリィ主演のストリッパーの話しは、良かったですね。
    全部再放送して、劇場版もやればいいのに。

    駆け出しの頃、伊東温泉にそんな小屋が有った気がしますが、今は廃れたんだろうなぁ。

    長々と失礼しました~~♪

    1. 昔暫く上野に住んでいた頃、同じアパートに劇場で働いている「特殊女優業」の女性が住んでいて、彼女が住人全員に割り引券をくれたので、皆で彼女のショーを見に行った事があり、多分この女性は私の母親に年が近かったように思いますが、舞台にはピンクの照明で、今は懐かしいネグリジェ姿で開脚ショーをやっていました。そして終って帰る時、彼女は丁寧にもみんなに挨拶に来たのですが、どう言って良いものか・・・と思っていたら、当時50歳くらいの住人が「結構なものを拝見させて頂き・・・・」と言っていたので、自分も結構なものを拝見させて頂き・・・」と挨拶した記憶が有ります。
      良い時代でした・・・・。
      本当は伝統文化と言えば、漆器よりもこちらの方が伝統文化と言えるのかも知れない、そんな事を思います(笑)

      コメント、有り難うございました。

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