「下を見る」

私は納屋二階を仕事場にしているのだが、この階下には燕の巣が20ほども有って、毎年ここからは200羽を超える子燕が巣立っていく。

その為階下には農業機械を置いているのだが、それらにはブルーシートがかけられているものの、ちょと人には見せられない惨状となっていて、仕事で訪れた人などは燕の糞だらけの入り口で一瞬無言になる。

 

燕に限らず空を飛べる生き物と言うのは、その高さを飛ぶ為に下を見ない。

階下に巣が有る燕が階段から僅かに見える二階仕事場の窓の光に誘われて上がってくる時が有るが、そうした時必ず天井付近を飛びながら出口を探し、上がってきた階段、下を全く見ず、それゆえいつまで経っても元の巣に帰ることが出来ない。

 

椀を塗っている頭の上を出口を探して飛び回る燕に、「馬鹿だな、下を見ろ」と呟きながら、可愛そうなので仕事場の窓を開けると、そこから勢い良く外に飛び出していく。

これは、さては二階へ上がっても私が窓を開けてくれる事を承知しているからか・・・。

否、低い処に在る者は上が見えるが、高い処に在る者は下が見えないと言うことだ。

 

この事はよくよく気を付けなければならないが、上を目指して、高度な技術を目指している者は、この二階へ上がってきた燕に似ている。

何にせよ限りと言うものが有り、高度な部分を目指すときはこの限り付近を飛ぶが、天井と言う限り付近を飛んでいては、実は出口が見えない。

 

しかし下にいては有象無象と同じになり、ここに甘えては天井付近の景色は見えない。

だから常に下ばかり見ていてはいけないが、迷った時は「下を見る」事も肝要になり、この事は何を指すかと言えば「凡庸」であることを至上とすると言う事かも知れない。

 

天才の為す事は一見凡庸に見える。

我々は普通である事をつまらなく思うかも知れないが、自身のこれまでを振り返っても普通で有った事、当然の事がその当然に動いて来たかに鑑みるなら、実は普通である事はその反対の状況よりはるかに少ない機会だったと思わざるを得ない。

 

普通である事は大変難しい事なのであり、統計上の平均値は実際には一番少ない数値である事に同じで、上限と下限が見えていてこその平均なのである。

これを思うなら、水が流れる如く自然に、当然の事が当然のように流れていく事を畏れなければならないように私は思う。

 

すなわち派手な色彩で目立つ事は簡単で、言葉巧みな者は言葉で人を寄せる事も容易いだろう。

しかし塗りの職人の本分は人気を得る事ではなく、著名になって公演で稼ぐ事でもない。

技術を駆使して当然の形を当然たらしめ、人の世のどの場面に立っても違和感のない姿であることを至上と思わねばならないような気がする。

 

技術をひけらかし悦に入るのが目標ならそれもまた良いだろうが、私は自身がどんなに苦労した技術だろうが、それが使う人に気にならない事を本旨としたいものと思う。

技術や私の在り様など使う人に取ってはどうでも良い事であり、この自然の在り様に取っても何でもない事で、特に目立ちもしないが邪魔にもならず使われていくなら、これを私は至上としたいものだ・・・。

 

時に天井を飛ぶ燕に「馬鹿だな・・・」と呟きつつ、或いはその言葉は自身に向けられているかも知れないと、はっとする事がある。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

10件のコメント

  1. ガチョウが撒かれた穀物の餌に誘われて、夜地表に穿たれた穴に入り込み、数メートル先で地表に出る。その周りは荒い大きな竹籠のような覆いが掛かっている。その中で穀物を食べているうちに夜が明けた。人間はその罠に手を突っ込んで雑作もなくそのガチョウを捕まえる。
    他の動物ならその穴を逆行して逃げられるが、ガチョウは明るいところから暗い所へ移動できるプログラムが無い。
    一見馬鹿に見えるが、それは本能であって、思考力とは関係がない。多分何十万年も掛かって進化したものだろう、もしかしたら今後何十万年か掛かって、明るい所から暗いところへ移動できる「能力」を必要なら獲得出来るかも知れない。
    明るいところへ行くプログラムが多いですが、モグラやケラは逆かも知れませんが、それぞれその種の遣り方で~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      光を求めて彷徨い、そして行き場を失うのは人もまた同じかも知れませんね。でも地味に地面の下で暮らしていれば安全かも知れませんが、これでは外の大きな世界は見えない。そして明るくて環境の良い世界は自分だけではなく他者もまた求める事であり、この意味では明るい環境は素晴らしいですが敵もまた破格に多い。商いの道でも利益は少なくても確実な処を求めるか、危険だが利益の多い処を求めるかと言う事になるでしょうが、今の社会はどうもせっかちで軽く、大した思慮も無く「光」を求める。先の予測も付かないものを希望だけで判断して光に向かっていく傾向ですが、光は上だけではなく、下の窓からも入ってくる。そして自分が入ってきた光の道が下にあったなら、もし道を誤ったときに戻るのは下の光ですが、一度上を飛んだ鳥は下の光、自分が進んできた道を探せない。まさに今の日本の在り様そのもののような気がしないでしょうか。日本はまた戦前と同じ過ちを犯していなければ良いのですが、近衛文麿が愚かさと小心の開き直りで大政翼賛会に突き進んだ事と、安倍総理が共謀罪をここまで無理して、しかも国民は強くはこれに物を言わない状況、戦前は戦争でしたが、今は経済を盾に取っただけで、何も違っていない気がするのは私だけではないだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. モースその他、日本を愛した人々は、日本の職人の手になるものは、日用雑貨、被服、家具住居を絶賛した様です。消費者の手に渡る段階になっているものは、職人であり、意識はなかったようですが、芸術家である人々によって、その用途に十分堪えるのは勿論、さり気ない事まで、地味ながら工夫が有り1つ1つが全て違うのにかかわらず、全く手抜きがない。
    それが日本の文化なのでしょう。
    野菜も農家の人は、市場に出すときは、必要なものでは綺麗に洗って、枯れた部分は除いて、それこそ直ぐ調理できる様な感じで出していた、これにも相当驚いたようです。今で言えば消費者目線になるかも知れません、個性豊かでも突飛じゃない。それを待っている人が居る。
    そんな心が通じる製作者と消費者の関係が今は怪しい宣伝で(笑い)崩壊しかけている。
    この間見た雑誌で、能登の塗師屋造りの家屋は職人が季節によって作る期間と行商の期間に分かれていたので、京町屋とは同業種でも違うと書いて有りました。後、雨が多く湿気が多いので漆器に向いている~~♪
    又、玄関が引っ込んでいて、通りがかりの人が雨宿りが出来る。他人にも優しい心を向けている。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      輪島も観光地になってから一挙に卑しくなった気がします。「おもてなし」に象徴されるような、包装紙は立派だが中身は劣悪な状況は既に救い難いところまで来てしまっているような気がして、金にならない者は相手にせず、金に繋がる者だけを相手にしたい、既にそうしないと限界に来ていると言うのが本当のところではないでしょうか。映画「ティファニーで朝食を」の中でお菓子のおまけでもそれに真剣に取り組んで行く場面が有りますが、これでこその一流は、いつの時代もどんなところでも技術者や商いの基本だと思いますが、ギリギリのところで人間性が失われた地では、この形だけが方法として利用され、内容はそれにそれに相反しているのが現実だと思います。文明開化の頃西洋の人たちが初めて触れた日本の姿は今は無く、形だけが残されたものの、その裏側は限りなく腐食していて汚い。そう言う姿が透けて見えるのが今の輪島市、漆器や観光の世界のように私には見えるのですが・・・。

      コメント、有り難うございました。

  3. アメリカンドリームと言って金が有る順に偉い、逆から見ると貧乏人は価値がない、どんな手段でも使って金儲けをして、或る程度になったらそれを売って、それを元手に金融に投資して配当生活、労働を蔑んで職人や農民を馬鹿にして、保険も作らない~~♪
    また、グローバリズムとか言って、手段を選ばず自分のためなら嘘でも平気で言って、自国のルールを世界中に力で押しつけて、毒入り饅頭で有るサブプライムローンみたいな物を売って、そんなネズミ講が破綻したときには、アメリカ人の手には大金が残っていた~~♪
    世界を金で支配しようと思っているが、最近、戦争は負け続きだし、トランプの爺さんが(笑い)三発目の核爆弾を使わないように願っています~~♪

    そんな国に毒されて日本人が自国の歴史も文化も分からない子弟を留学させるなんて狂気の沙汰、また、そんな所への移民は、アメリカに戦争を仕掛けられて自国で生業を失ったのに、今はそれも受け入れない~~♪

    日本は職人や農民をもっと大事にして歴史や伝統をしっかり教育して日本文明の誇りを今一度取り戻せばいいのに、テレビを見ているとその逆をしてアメリカ様の真似ばかり、マックとKFC喰ってハロウィーン~~♪
    アメリカが攻め込んだ国は、それこそ掃いて捨てる程有りますが、アメリカに攻め込んだ国は、今のところ日本だけ、負けちゃったけれど~~♪

    先出の雑誌には輪島塗のあらましと、その工房の様子も紹介されていました。内部の方とは見方が相当違うのでしょうね。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私は戦争も同盟も同じものに見えます。それは国家運営の方法の選択であり、同盟は自国に力なければ同盟相手に国を食い尽くされる。力ある国家は他国支配を強める為に同盟を用いる。これは一種の戦争なのですが、例えば弱い国家に目標が有るとしたら、その目標の為に深手では有りますが左肩を刀で突かせて、それで刀を奪い最終的には勝利を得る覚悟が有れば弱小国家に取っては同盟も有益になる。しかし自国の身の安全だけを考えていると、傷を負う事を恐れていると、気が付いた時は相手の言いなりになるしか自身を守る術が無くなる。これは兵法だけではなく経済も、また人と人の関係でも同じで、和や和平とは色んな状態がある中の一つの状態でしかなく、未来永劫変化しないものではなく、むしろ瞬間の状態、それを選択した時の状態でしかない事を忘れていはいけないように思います。そして無常ですから必ず移り変わる。人と人の関係でも本意ではなくても裏切らざるを得ない時も有れば、肉親でも対立しなければならない時が出てくる。この時和平か戦いかの選択はより大きな大局を見ることが出来る者がどれを選択するかと言う事だろうと思います。それゆえ久しく親交を壊さずに終れた関係には感謝せねばならず、無常とは今の関係が永遠ではないとするなら、今の関係が悪い者も明日も同じで有るとは限らない事を指している。戦争も和平も国家や人にはその時の状態の一つでしかない。
      そしてこうした考えのない処に今の日本の地方や中央の策の無さが存在し、それは工芸の世界も地方の疲弊する経済も同じで、結局のところ現実を見ることが出来ない今の日本は上から下まで救いようが無い状態にしか見えない訳で、御身かわいさで自身を甘やかすなら自滅し、生きたかったら死を覚悟した行動が必要になる・・・。

      コメント、有り難うございました。

  4. 我が郷里に東雲(しののめ)羊羹というものがあり、若い頃田舎から何か食品を送ってくれるときは、必ず数本入っていた。硬くて、昔は竹の皮で包まれていた。好物だったので小振りだったが一本200円位で比較的高価だったが、何とか送ってくれて、感謝して食べていた。

    昔休日早朝長距離散歩をしていたとき(笑い)、最寄り駅から数えると4つめの駅の駅前商店街の外れにある羊羹、1回だけ自分で買って食べたことが有る。そこは数量限定で売り切れたらお終い、たまたまそこに出くわして、買えそうだったので、ちょっと並んで買った。郷里の羊羹に比べたらかなり大きかったが、一本7~800円だったと思う。帰宅して食べたら、東雲羊羹と似ていて、美味しかった。
    地味だけれど、丁寧に作ってあり、どんな感じと聞かれても、美味しい羊羹、と言うだけ(笑い)
    それから20年ぐらいたってから、偶然早朝のラジオ番組で、そこの創業者の奥さんであるお婆さんへの聞き取りの話しが流れていた。
    取材者の色々な質問に応えて居たが纏めて言えば・・・
    「今働いている自分も含め、家族と職人が普通に食べて行ければ良い、2000円でも売れる、と言われても、そんな事をしたら、昔から贔屓にして頂いているお客さまに失礼だし申し訳ない。有名になって心苦しい、味と品質を保って行きたい、ずっとここで商売をさせて頂いて生きて来たので、駅前に出る気もないし事業を拡大する気もない。大抵丹精したものがその日で売り切れるだけで誠に有難い、只いつも並んで貰っても買えない方が居るのは大変申し訳ないと思っている・・でも、昔からの味を守って作るのは今で精一杯だ・・・」
    と言うような感じのお話しだった記憶です~~♪
    今でも有る様です。東雲の方も有るようです。

    自分の最寄り駅の商店街は再開発と称して、住居兼店舗の2階屋が殆ど10階建て位の集合住宅になり、アーケードも無くなって、お店の主人たちも年がいって、殆どは店を閉めました。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      東雲とは珍しい名前ですが、実は石川県にも同じ地名と言うか、七尾市と言うところには東雲高等学校などが存在していたりします。また歌手の「一青よう」さんの「一青」と言う地名もこの七尾市の近郊に残っていたりして、東雲同様、どこかでとても親近感があります。
      硬めの羊羹、美味しそうですね。多分蒸し羊羹なのでしょうが、それを作っている人の姿勢がまた何とも良いですね。謙虚さが軽薄化する昨今ですが、買いに来てくれる人に対して、本当の感謝とか気持ちと言うものは周囲や時代に振り回されない確固たるものだと再認識させられます。
      しかしそうした立派な方であっても年齢を重ね、やがては店を閉じなければならない時が来る、それが寂しいところで、私の近所でも私が生まれる前から存在していたコロッケを揚げていた肉屋さんが、やはり高齢化で廃業し、何とも言えない気持ちになったものでした。金さへ儲かればそれで良い、そのためなら何をしても良いんだと言うような風潮に有ってこそ、長く謙虚に飾らずに物を作ってきた店の重要性は高まるばかりです。そもそも買いに来た人を消費者と言う、物を買うことを消費と言う、その傲慢かつ守銭奴的な発想からでは、長く続く物作りの人の精神は理解できないのではないか、今の時代の経済学とか言うアホらしい理論を見ていると、スタートラインから間違っていたのではないかと言う気になってしまいます。

      コメント、有り難うございました。

  5. キリスト教徒は新天地に入植すれば、取りあえず教会を建てる。神に祈って、その恩寵を願う。かなり広い範囲に20~30ヶ所ぐらい建てると、そろそろ子弟の教育も始める。神と個人が直接繫がっていて、その契約に於いて、神より愛が受けられる、らしい~~♪
    労働は神から与えられた罰だから、適当に遣る、消費は権利だから好きなだけ遣る、らしい~~♪

    日本人が、最初にすることは、小学校を建てる。社会に早く溶け込んで一員となるために、大人が、初期より手助けをする。神と自分の関係をいつも確認する必要は無い。普くおわしまして、自分たちもその末裔であるし、突き詰めれば食事も、労働も神事の一部であり、頂いたものを無駄に消費すること無しに分かち合う。死ねば全て神となり、天国行ったり地獄に行ったりと言うことは無い。
    最近はお婆ちゃんが天国から見ていると、テレビのキャスターが真顔で言い、親をなくした子は、お父さんは天国に行った、と言う。

    まあ、最近は、ものに軽重が無くなり横並び玉石混淆で、テレビのニュースも、政治経済の話しと芸能人の噂話も動乱地帯の飢餓や代理戦争も俳優の死もオバチャンのダイエットもごっちゃまぜ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。
      ご返事が遅れまして、大変申し訳ございません。

      日本人の宗教観は海外の宗教から見れば節操が無く、昔からあらゆるものを取り入れて行く許容性を持っていましたが、この原点は自分以外の他を全て敬う、大切にする考え方がありました。ですから適当なように見えて一番最速最短の、しかもとても厳しい要素が自身に課せられていた側面が有ります。ただ古代、近世まで考えられてきた日本のこうした自主統制型の宗教観は「今」や「徳」など、最低でも眼前から先を見据えたものでしたが、現在のそれは「終った事」を考える場合が多く、しかもそれは自身ばかり都合の良い考え、非常に安易な部分から成り立っている割には他者には不遜です。どこぞの歌舞伎役者のような在り様は、薄く卑しく見える。人の死はその後安易に崇めたり綺麗ごとを多く語り過ぎると死者を貶める。そしてそう言う綺麗な雰囲気に浸りたいだけの者を集めて綺麗な世界をつくり、そこに甘える。本当に大切なものに対しては多くは語らない。言葉の多きに在るは、そこに自己保身や「利」の卑しさを伴う。

      コメント、有り難うございました。

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