「角の概念」

輪島塗の世界にはこんな言葉がる。

「鼻をかみすぎて血が出るような仕事」

これは基本的には「過ぎたるは及ばざるが如し」だが、もう一つには仕事に呑まれて自分を見失う事を戒めたものかも知れない。

例えば吟味した「五段重」を作るとき、その内側の隅を余りにも厳しく攻め過ぎると研磨砥石が届かなくなり、仕上がったときに隅がギザギザになって見えたり、もし砥石が届いたとしても、上塗り漆の浸透圧で隅が周囲より厚くなり「ちぢれ」てしまう事になる。

更に冷静に考えるなら自分がそれを使って洗う時、隅が深くなっていたら綺麗に洗えない事を忘れてはならず、こうした事から「お重」の下地では一番最後の下地工程で「隅を殺す」と言って、少しだけ木ヘラの先を切り落として漆を付け、隅をなだらかにするのが正しい在り様になる。

同じように四角い器物の角も、唯剣先のように鋭く仕上げたのでは手に持ったとき漆が塗られている柔らかさを感じられなくなり、どこかで禍々しい感じに見えてしまう。

それゆえこれは隅の概念も同じだが、角をなだらかに落とし、尚且つそれが綺麗な直線に見える研磨技術が必要とされる。

角の落とし方はまず90度の角の真ん中を左右の角度が同じになるように大きく落とし、次にその落とした角の両端の2面を最初の落とし方の半分ほどの深さで落とす。つまり角はこれで細い3面によって構成される事になるが、こうして出来た3面の角は4つになり、この4つの角を更に3面にした時の角の落とし方の半分の深さで落とす。

この段階で当初90度だった角は6面、角は8つになり、見た目には殆ど円が4分割された状態の多面構成になるが、人間が見る角とは光の反射光で有り、この点で角の概念とはその直線の正確性と言う事が出来る。

どんなに大きく角が落とされていても、そこで平面と平行する直線性に歪みが無ければ光は綺麗な直線で反射し、しかも多面線でこれを研磨して有ると、どの位置から見ても8つの角のどこかの頂点が視覚に捉えられる事から、綺麗な角に見えながら、持って見ると滑らかな器物になる訳である。

そしてどんな仕事もその基礎が不安定ではどこまで行っても不安定な事になるゆえ、こうした角の構成の仕方は、素地研磨の時から頭にイメージしながら、研磨して置くことが肝要になる。

人が感動する、或いは心を奪われるものとは唯見た目の造形の奇抜さだけに有るのではなく、僅か一辺の角にも美しさは存在し、そこを疎かにしてはならない。

また安易に物理的概念で角を考えるなら、角を構成する両面を正確に研ぎだして行けば、剣先のように鋭いものになると考えるかも知れないが、どんなに鋭い切れ味のもので切断しても、その切断面の角はミクロ的にはギザギザのものであり、これに直線性を与えるものは如何なる場合も研磨でしか有り得ず、これは金属加工でも同じ事かも知れない。

基本的に研磨は切断の一種なのである。

 

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 腕の有る経験豊かな職人の極意の一端に触れた感じで、気分が良いです。
    実際は相当難しそうだし、自分が見ても、そんなに分かるわけでもないでしょうが、今度機会が有れば手にとって見てみます。

    自分は、もし地場に伝統的、技術文化の産業が、例えば、漆器、紙漉、焼き物、木工・・等が有れば、それを仕事にしたか、考えることが有ります。
    そう言う伝統産業について、困難さとか喜びとかが、今は少しは想像が働きますが、身近にあったら、果たして遣ったか、よく解らないです。
    その職人的才能ばかりじゃなく、商才や技術的閃きに恵まれていれば別でしょうが、地味な分業の中で、もしかしたら衰退するやも知れず、若しくは、それ程金銭的余裕はなく、子弟が比較的優秀で、高等教育を受けたがっているのに、それを支えられないかも知れない、人たちが近辺にいたら、尚更で、迷ったでしょう。
    まあ、勝手な想像では、一端田舎を離れて、まあ、普通でどうって事もないときに、察した母親に絆されて帰卿し、公式見解では(笑い)「伝統産業に寄与したいと思って・・」家業であれば継いだかも・・

    地味なのだけれども、分かる人が見て、「神髄」を誉められたら、嬉しいでしょう。
    食えれば、大抵は何とか成ると、楽観して生きたいと、思って居ります(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私は思うのですが、本当に良い物は誰が手に取っても解るものではないかと思います。
      作者やゲージツ家が散々説明しなければ理解できないと言う物は、やはりどこかでその説明を必要する分だけ不完全、或いは自然や環境、地球と言う場になじんではいないのかも知れないと思います。
      理由はともかくこれは良いなと思って頂ければ、私などはそれがどう作られたかは自分の問題だろうと、そんな事を思います。
      また最近の工芸はどうしても○○が好きでと言うような動機を必要としますが、およそ職業に貴賎には無く、例えアルバイトでコンビニに立っていても、そこに芸術的な美しさは存在し、おそらく多くの人に何かを伝える事が出来るでしょう。問題は何をやっていても真剣に、まじめに、人の事を考えているか否かと言う事ではないかと言う気がします。物を作る者は良いものを作って当たり前、その為の努力も当たり前、褒められる事を望んではならないと、いつもそう思っています。

      コメント、有り難うございました。

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