「神の始まり」

古来より軍隊と女の相性は悪い。
厳しい軍の規律は女に拠って崩れ易い為であり、またそもそも女と言う「生」は決死で戦闘を行うものの気概や士気を迷わせ、それゆえ古くから軍の中に一般の女が存在する場合、その軍の評価は限りなく低いものとなる。
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だがその一方、一兵卒の立場であれば何とかして生きて帰りたい、家族もまた生きて帰って欲しいと言う「生」の執着にすがって、戦場の危機を調伏する方向が有り、これは女と言う情念を使って生き残ろうとする一兵卒の切なる祈りでもあり、女の陰毛をお守り代わりにするのは軍と言う生死を問わずの中で、その女の持つ軍とは真逆の「情念」を拠り所とする為である。
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そしてこうして戦場や軍では女を忌む中で敢えて女を使う場合、これは「神性」である。
つまりは山深い道で若い女に出会った時、そこにいるはずのない者が存在する訳で、そこには人間の範囲ではない正邪の区別の無い神性が出てくる。
普通ではない、何か得体の知れない者だと言う恐怖感は「神」の始まりである。
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こうした考え方の広義に「天意」もまた存在する。
すなわちこの戦いは神の戦いで有り、自分たちに抗する者は神に弓引くものだと言う威圧を擁する形式が有り、これは神社などで神のご加護を祈願する概念とは異なる。
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春秋時代の中国、日本では武田信玄などが採用したものだが、その軍の一番先に巫女や楽士を配し、ここで太鼓や音を打ち鳴らして進軍する場合、それは神の軍であると言う意思表示になる。
つまり、我々は「天意」だと言う訳であり、武田信玄などは敵が武田軍を待っていると、そこへエイヤー、イヤーっと言う子供の掛け声と笛の音、それに諏訪太鼓の音が近付いて来て、それらが道を開けると怒涛の如くの騎馬兵が押し寄せてくる訳である。
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この恐怖と、もしかしたら自分達は絶対勝てない戦をしているのかも知れないと言う不安感は戦闘に大きな影響を与える。
ちなみに、先に神の形を配した軍を攻める場合、楽士や女子供を殺してはならない。
何故なら元々神はどちらの味方をするかが決まっていない為であり、ここで敵とは言え先頭の神祓いを切るは、その時点で天のご加護を得られる見込みは無くなったと言うべきものなのである。
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フランスの「ジャンヌ・ダルク」もこうした背景を考えると、なぜうら若き乙女が国家を救う事になったかを漠然と理解できるかも知れない。

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神性とは「有り得ない者」からこそ始まるものと言えるのかも知れない。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 日本は神の国であり・・八百万の神々が、それは我らが先祖でもあるが、そこここに坐し、我らを見守って、時には祟って、という意味に置いて。三波春夫の「お客さまは神様です」と同じで、本来的な意味では何時もしっかり理解している人々は例外中の例外で、安易な免罪符やら思考停止の理由に使われているようであるが、悪化しこそすれ、改善は見込めないと思う、人は勿論自分も含めて、今が大切なのは宜しいのだし根源的であるが、似て非なる物だが、全て犠牲にして今だけ良ければ、後は野となれ(能登となれじゃない-笑い)、山となれ、なっても人の所為~~♪

    帝国陸軍は「南京事件」起こしたとか「コレヒドール」では国際法違反をしたとか、鵜呑みに信じて、自分の父祖を信じることもなく、歴史は継続しているにもかかわらず、或る一定時期だけ、異常を来していた、というご都合主義の歴史観から逃れられない人々が未だ論壇の主流を占めているように見受けられるのは、他人にも自分にも神性を見ることが出来ない「唯物論者」の程度の低さを現しているように思える。先の総選挙で22議席から12議席に激減した党は、与党なら国民の審判は出た、とか言うだろうけれど、自分に起きても全くカエルの面に~~で、これだけ見ても信用に足らない。
    日本だって酷い事をするし、酷い人も多いが、白人の歴史を少し見れば、概ねあちらはこちらの最低100倍は酷い~~♪

    粗暴な犯罪を起こす沖縄の米軍も、相撲界の外国勢も全てがそうだと言いたいわけではないが、山川草木悉皆成仏で、ものにさえ、物にさえ仏性・神性を認め、真心より感謝する民族からすれば、相互理解の壁は高い。

    人は何れ死ぬが・・毎日苦痛に苛まれている重病人の高齢者が心停止してまで、今は蘇生術を施すのが、特段の書状が無い限り、一般的であろうが、これは、或る意味天の采配に対する畏敬の念の欠如であり、浮雲に惑わされている社会を現しているように感じる~~♪

    この間、ポリフェノールが強いのに当たって(笑い)、数個は正月用(箱根駅伝用-笑い)で冷凍して残して、全て焼酎を飲まして、美味しく頂きました~~♪

    散歩の会で、1人のお婆さんが、道路に落下した熟柿を見て、「勿体ない」と、全く同意。こんな所からも神性が始まる事が有るようにも思える~~♪

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      神性とは、結局自身が事象をどう見るかと言う事のような気がしますが、これに捉われても捉われなさ過ぎも面白くない。
      感謝したり敬う事は善しとしても、困難な状況でこれを頼るは「危」、結果は「凶」と言う事になるのだろうと思います。
      権利、公正のように求めるものばかりを増やすと、感謝したり自分の本当の現状を忘れ、声高に人は攻撃しても自分が攻撃されるとただ逃げていくだけになる。
      政治家や評論家、それに今では企業の経営者でもポリシーと言うものが無くなり、自分を守る事しか考えていなくて道を誤る。この国は道を誤った者たちに拠って崩壊していくような気がします。
      柿は今でも沢山成っていますが、だいぶん柔らかくなって来ていて、おそらく竹竿の先に鎌をくくりつけたもので枝を切り落とすと地面に激突して壊れてしまうでしょう。これより以後は鳥たちのものと言う事になります。
      また今夜は低気圧が近くを通過しているのか、とても雷が近い、光って直後に「カシッ」と言うようないかにも電気的な大きな音がしています。
      こうした気候が何度か繰り返されて本格的な冬になっていきますが、北陸特有の気候と言えるかも知れません。

      コメント、有難うございました。

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