「穢れを祓う」

突然では有るが、良く考えてみると今年も何一つ人の役に立てることができなかったような気がして、何となく心苦しいので、せめて僅かばかりの罪滅ぼし、「大祓い」の真似事でもやって、この記事を訪れてくれた人たちの安寧を願おうかと思う。

古来日本では、罪と言うものは本人に内在するものと言うより、「穢れ」と言うものがそれを起こさせると考えられ、しかもこの穢れはまた新たな罪をを呼び、国家に降りかかる様々な災害は、こうした穢れから来る神の怒りであると信じられてきた。
そして彼らはこうした穢れから身を遠ざけ、罪を犯さないようにと暮らしていたが、それでも、もしかしたら自分が知らない間に穢れを、罪を犯しているかも知れない、そう思いはじめ、穢れを清める神の存在を求めた。

平安時代にまとめられた「延喜式」と言う書物の中には、そうした穢れを祓うときに読まれた祝詞が記されているが、この頃の朝廷は年に2回、国じゅうの穢れを祓う、「大祓い」の儀式を行って穢れを祓おうとしていたようだ。

そしてその考え方はこうだ・・・。
全ての罪や穢れは、川の神から海の神に送られ、そこで海原を吹く風の神に吹き飛ばされる。
そして海の果ての「根の国」「底の国」の神がそれらを全て消してしまい、人間の国の穢れは清められる・・・。

日本神話には「速佐須良比時」(はやさすらひめ)と言う、日本神話以外の神が登場しているが、この神が「根の国」と日本神話の世界を自由に行き来していて、、その名が示すようにさすらいの女神と言うことになろうか、つまりさまよい歩いている神なのだが、彼女は人々の犯した多くの罪と穢れを持って、あてども無いさすらいの旅をしているのだ。

一つ一つの罪や穢れには、それを清める場所があり、それを総称して「根の国」と呼ぶのかも知れない、が、しかしそれはきっと人間の知恵では、はかり知ることができないものなのだろう、だから日本神話では「根の国」は名前だけしか出てきておらず、こうした国のことは一切書かれていない。
もしかしたら、人間が口にすることすらはばかられる世界なのかも知れない。

人は生きていく上で、何の穢れも無く存在し得ることが叶わない、いわばものを食べることを天上の神の仕事とするなら、では排泄はどうなるか、これを無視して人は生きられない。
従って「根の国」の神は、こうした人間達が生きていく上で、避けられない穢れの部分を清める役割を負っているのではないだろうか。

我々は神社へ行けば水で手を清め、滝に打たれて、あるいは冷水で禊(みそぎ)をするが、それで穢れは消えるのではない、穢れは水と共に川から海へと流れ、そして「根の国」に流れていく、いわんやこれは自然の摂理としても、地面にしみ込んだ水もまた、やがて地下水となって海に流れていくのと同じで、そして穢れたものは清められ、またもとの美しい水となるのである。
だから「速佐須良比時」のさすらいとはつまり、水の循環を指しているのかも知れない。

そして水はこうして穢れと、美しく純粋なものとを循環している、言うなら「根の国」とそれに関わる神の存在は「自然」そのものであり、森羅万象の理、そのものなのではないか、だからこそ、日本神話はその記述に関して、これを侵してはならない・・・としているのではないだろうか。

「罪という罪はあらじと、速川の瀬に坐す瀬織つひめという神、大海の原に持ち出でなん。かし持ち出で往なば、荒塩の八百道の、八百道の塩の八百会に坐す速開つひめという神、持ちかか呑みてむ。かく気吹き放ちては、根の国、底の国に坐すさすらひめという神、持ちさすらいて失ひてむ」

さて、これが「延喜式」に載る「大祓い」の祝詞だが、ちなみに最後に来てこうしたことを言うのは恐縮だが、私はこれまでにおみくじで3回も「凶」を引いている。
だからこの祝詞で不安な人はちゃんとした神社でお参りした方がいいだろう。

では方々、健康に気をつけて、良い新年をお迎えありますよう・・・。
1年間ありがとうございました。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 穢れを祓って頂き有難うございます~~♪
    近所の天満宮の前を良く通りますが、お参りしている方が散見されます、それぞれの思いがあるのでしょう。

    神社仏閣~初めての駅からもこんもりとした森を見つけては、鎮守や寺院にも、良く行きます。昔は真面目に形式に則って、参拝はしませんでした、ここ十数年は神仏の加護を自分用では願っているわけでは無いですが・・喜捨・初穂は行います~~♪

    未だ歴史は浅そうですが、折角七五三参りをしていても、行事化して御利益を期待して、穢れを祓う物ではないかも、爺婆や両親の、今で言えばインスタ映えの為かも、もしかしたら、神社側で、説明を怖れたのかも知れません。
    上座部の地域も、モスレムの地域も、内心は知りませんが、幼少時から、形式の中で学び、何れは、それぞれの祈り・祓えが有るかも知れません。
    今のクリスマスやハロウィーン、その内イースターも1つの契機であるでしょうから悪くも無いと考えていますが、刹那化して、免罪符・懺悔室のように、経済活動のみなら、もっと遣ることが有るかも。

    高田好胤は、古文書も良く読んでいて、古代に貴人・天下のために祈祷もしたが、本件の神主のように、知らんぷりして呪詛もかなりしたと言っています。生々しくて、現実味が有って逆に人間味を感じます。
    徳川時代は、政権から距離を置いていた京都・奈良の宗派・寺は、かなり苛められて、かつ貴族の庇護も受けられなくなり、貧乏を託っていたようですが、良く学統は守ったと思います。好胤も日光東照宮のけばさを暗に揶揄しているようだし、好きじゃなかったようです。
    政教経一致で有る必要もありせんが、伝統的日本の生命観・宗教観とも言うべき「シントウ」の深い諦観と言うか自然体というのか、有るべき様にあるのではなく、あるがままにあり、美・生と穢れは表裏であり、祓いながら、若しくは循環しながらそれからの汚辱や加護の下で存在している、と言うような理解は、現下忘れ去れていて、言葉の遊びだけが大手を振って、札びらを切っているかも知れません。
    札ならオラにも少しだけで良いから回してくれ(笑い)、とは言う物のそれ程の使い道は無いかも(笑い)~~♪

    日の本の神々は、いずこにも坐していて、少なくとも年1回は、出雲に会して居りますから、心配はしておりませんが、近所の寺院と天神様には、箱根駅伝が終わって(笑い)一段落してから、お参りに行こうかと思っておりますが、年末でも良いかとも、時に区切りは無いわけで~~♪

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      また今年もこうした話の季節になって来ました。
      今年は始まりから大変な1年でしたが、アクシデントと良くない事の連続で息付く間も無く終わってしまった感が有ります。
      毎年今年こそはひとやま当てて一発逆点を狙っている割には、へこんでしまって、本当は信じてもいないくせに困ったときは神頼みと言う有様です。
      吉川英治は「宮本武蔵」の中で、小さな祠の前を通り過ぎようとする武蔵の足を止め、拝もうとしてそれをやめて立ち去って行く姿を描いていますが、吉川英治らしい、人間的な部分と、それを何とかして断ち切っていこうとする潔さが有りましたね。こうした姿は戦争中の若者に潔さと言う側面から影響を与え、そして多くの若者たちが吉川の本を胸に大空に散って行った。
      振り返って、今の初詣のあり様を見ていると、イベント的、心に対する役目済ましのような薄さが有り、加えてどこぞの神社ではないですが、神主が殺され末代まで祟ってやると言って自決すると言うような具合で、一見綺麗に卒なく動いている社会の下では、色んなものが溜まってきているような気がして、それが時々禍々しい事件となって顔を出してきているように思います。
      信じる者は救われる、でも頼る者は救われない。さらにここで信じると言う事は「諦めない」事であり、自分自身を最後まで信じる事に他ならないのでしょう。

      さて、来年こそはひとやま当てて一発逆転と行きたい・・・(笑)

      今年も色々有難うございました。
      奥様にも宜しくお伝えください。
      良い新年をお迎えください。
      コメント、有難うございました。

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