「おじにん」

極端に古い言語や口語体はそれを学術的に研究したり、或いは文化的価値観から研究保存しようと言う試みが為されるが、例えば日本古来の「和歌」や「短歌」、中国の「漢詩」などは時代を経ても残っていくが、一般庶民が日常使っている言語は、それが生活に用いられていただけに、そこに価値を見出す事が出来ず、僅かな生活環境の変化で簡単に失われ、しかもそれが失われた事すら誰も知らず失われていく。

 

「おじにん」は昭和40年代前半に消滅した言語である。
元々日本海側と日本アルプスの麓などに点在する形で分布したした言葉だが、1930年くらいには既に衰退が始まり、1970年にはもう地方の村でもこの言葉を使う者は1人か2人と言う状況で、おそらく1975年前後に完全に消滅したものと思われる。

 

その意味は「憤り」や「不満」「理不尽」、「怒り」などであり、現代用語で言うなら「この人でなし」や「お前と言う奴は・・・」と言う解釈になろうか・・・。
主に男性言語で、女性が使う機会は少なかったが、その背景は単に確率の問題だったと考えられる。

 

日本に男女平等の精神が確立したのは1980年くらいからである。
名目上の男女平等はそれまでも謳われてきたが、現実にはこの1980年の結婚適齢期女性人口の相対的減少傾向から女性の地位は向上し、そして民衆は誕生する子供に男の子より女の子を望むようになって行き、現在の女性至上社会に移行して行った。

 

つまりそれまでの男尊女卑社会では、そもそも女性が家族中や公の場で不満を訴えることが既に難しかった事から、「おじにん」と言う言語は「男性用語」としての性質を持っていたのであり、こうした男性用語だったが故に女性の地位の向上と、男性の性的優位性の喪失により消滅の憂き目を見たと言える。

 

また「おじにん」はどちらかと言えば負け犬の遠吠えに近い意味が有り、この言葉を使っている当人は、その場では劣性に有る場合の意味を持っている。
この事から元々は「ばかやろう」と同じ程強い意味を持っていたにも拘らず、男性言語の中でも劣性の言語となって行った経緯が有り、より貧しい者、力の無い者、若さに対する老いの言葉となって行ったのである。

 

更にこうした全人口の半分を占める女性が使う機会の少なかった言語は、当然「家制度」中で下にある子供も中々使う機会が少なく、尚且つどちらかと言えば劣性状況の言語でもある為、働き盛りの男性も使う機会が少ない。
結果として老人男性言語としての意味合いが強くなって行ったのであり、この背景を考えるなら、「おじにん」と言う言葉が長く続く方が難しい状態だったのではないかと思われる。

 

「おじにん」の本来の意味は差別用語である。
相手の事を特別な場合「えな」と発音する地域が過去に存在し、「な」は古くから相手を指す言葉で、現在でも玄界灘や能登半島の一部地域で「なだ」と言う発音で残っているが、こうした「な」に「え」が付くと、それは相手を罵倒した意味を持ち、「え」は基本的には「えた」である。

 

本来「え」は「蝦」と解されても良いように思うかも知れないが、「蝦」は権力者の言語であり、これと民衆が使う「え」は必ずしも同義では無かった。
「おじにん」の初期はこの「え」と同じで、「人非人」を語源としている可能性が高いが、「おじ」には「引く」と言う意味や「足りない」と言う消極的な意味が有る。

 

そこには家長が持ちえる全ての権限に対しての劣性が有るのであり、この劣性と階級差別用語が組み合わされている可能性が高い。
一般的に「叔父」や「伯父」に対する意味は現代でこそ統一されているが、その昔は「叔父」と「伯父」でも席順が違い、ましてや長く続いた武家社会の家制度上の「叔父」と一般大衆の「叔父」は概念の違いが存在していた。

 

この事から「おじにん」の「おじ」は必ずしも「叔父」と同義ではないが、それが組み込まれた部分を持っていて、「劣った者」と言う蔑みや「鬼」、「え」の発音が持つ「何かが足りない」と言う意味を持っていた。

 

大体「あ行」の発音は一つ及ばないか、一つ余計になる事の意味を持つ発音であり、「あ」は「準」、「い」は「止め」「う」は「弱い準」「え」は僅かながら致命的な不足、「お」は「あ」の逆の意味での準である。

 

それゆえ「おじにん」の本体は「お」を半透明に含んだ「じにん」だが、これは一部の古い文献では「土蜘蛛」を意味する場合が有る事から、弥生後期には成立していた差別用語とも考えられるが、「おじにん」の歴史はそれほど古いものとは思われない。

 

おそらくは古くても戦国時代、場合によっては江戸中期に成立した言葉のように思われる。
このように初期から使用範囲が劣性にある言葉の寿命は短い場合が多いからである。

 

私がこの「おじにん」と言う言葉を最後に聞いたのは1973年だったが、その言葉を使っていた老人は、何度追い払っても自分の顔に留まろうとするハエに対してこの言葉を使っていた。
老いた男性とハエ、そしてこの「おじにん」と言う言葉の持つ、どこか理不尽なものに対して抵抗が叶わないようなニュアンスが何故か今夜は鮮烈に蘇ってくる・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 言葉に盛衰が有るのはやむをえないが、その概念が残っている、と言うより厳然として存在しているのに、その不思議な深さ、奥行きを、何事も単純化・平準化して、理解できなくなって行けば問題が潜在化かして、解決の道まで閉ざされて仕舞うことになるかも知れない。

    某国では漢字を廃止して、自国の古典も読めなくして、語源のない文字を使用して、現代は、漢字から来る残滓さえも、同音異義が多く、混乱を避けるために、使わなくなり、語彙はその数を減ずるばかりで、体格・脳容量は良かったが、言葉の問題で滅びたらしい、ネアンデルタール人への道を喜悦を以てひた走っているらしい~~♪

    言葉を無くしても、その事象が無くならない事は多いが、差別用語を推奨するわけではないが、例えば、「つん○桟敷」、この細部を表す表現は未だに、出て居ないし、成熟している言葉はない、情報から隔離とか、言っているが、意味も違うが、一人歩きするほど、多用な意味も持てないでいる。
    因みに、ヘレンケラーが初来日したとき、江戸時代から日本には、盲目の為の学校が公立であり、その自立のために金貸しの仕事を、優先的に営めるようにしていたことを聞いて、大感動して、平等性の具現をみたのであるが、その記念館みたいなところで説明を受けたことは、その数百年の真実を感じ取ったらしい。
    今は幼児用の教材にのみ、彼女は登場しているようであり、日本人は過去は差別無知蒙昧の封建時代で否定されるべきと刷り込みされていて、それから抜けられない~~♪

    又「「い○り」、足の不自由な人~~♪
    これは例えば、幼児がおぼつかない足取りで、古井戸に近づいて居るのを見れば、瀕死の病人も、その寝床から、い○ってでも、縁側を越えて庭に出て、助けたいと思う心が、生まれつき備わっている、という様な心情が有る事も伝えられなくなった。

    我が郷里には「までぇにする」という言葉があり、中年以上の人の中には、使う機会は無いが、聞けば翻然と理解して感動する、様な言葉が有るが、「丁寧に」「大事に」とか言う程の意味であるが、これでは伝えられない、一連の動作が有り、中々伝えにくい深さがある、と思っている。
    母の葬儀で、骨を拾っているとき、もう箸に掛かるものが少なくなってきた時、場長らしき方が、そこに寄ってきて、「までぇにするから・・・」~拾った後に、全て残すところ無くそれぞれ集めて、個人個人の封で、大切に保管して、一定期間が経てば、定期的に高野山に送って永年供養をして貰うので、粗末にする心配なく、適当な所で、切り上げて貰っても宜しいかと思います、と言う事。
    又、「までぇに育てた」というのは、貧乏だったけれど、出来うる範囲内で、食事や世話をして、素直に、可能な限り、自分の希望と可能性を生かせる様に、有りのままなのだけれど、それなりの仕事に~進学で、家を離れる事が出来るように心を配って、子供を慈しみ育てた、というような事。
    温室に入れて、猫かわいがりに育てた、という意味ではない(笑い)

    LINE 等 SNS 等は、それなりの意味はあるだろうけれど、しっかり結びついた親子が、遠く離れて暮らしているときに、簡単な言葉で、100万本の薔薇が送れる、だろうけれど、何も無い砂漠では、ハチドリの水も受け渡しは出来ない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      1960年からの50年で日本が失った「言葉」はとても多く、全国的には数万に及ぶ言葉や語彙が失われた可能性が有り、それは今も続いている。と言うより今ではそれが加速的に進んでいる気がします。
      言語は現実の事象に対応するものですから、社会と言う現実が変化していけばスライドして変化して行くのが普通では有りますが、これは急速に生活環境が変化している事を示していて、混乱を示すバロメーターでも有るかと思います。
      元々「絆」は留め置かれる、繋がれると言う、どちらかと言えば悪い意味の言葉でしたが、これが今では逆転している。其の意味では「こだわり」も同じで、仏教的にはこれを避けよとまで言われているものを、恥ずかしくも無く「こだわりの一品」などとしたり顔な訳です。同様に風習も変わってきていて、今では平気で60代の人でも人と話をしていても携帯がなればそれを優先する。
      本来人の重要性を測るは「眼前に訪れてくれた人」の次が電話なはずですが、自身を訪ねてくれた人、眼前にいる人より重要な人は本来いないはず。それを割って入ってくる電話を優先するは失礼以外の何者でもなく、そもそれほど重大な事など親が死んだか何かの時くらいのもので、「今何してる」くらいなど電話で聞く価値も無いことのような気がします。
      当地では「おじにん」と言う言葉は今では全く使われなくなりました。
      少なくともここ30年では聞いた事がありません。
      でも結構これは深くて良い言葉だったなと思い、ここに記録させて頂きました。

      コメント、有難うございました。

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