「ししっぽ」と呼ばれる魚が有る。
公用言語では「かながしら」と発音するらしいが、輪島では「ししっぽ」と言えば焼き魚の代名詞のようなもので、観光用には刺身が絶品とか書かれているものの、「ししっぽ」の大きくなったものは、実は余り美味しくなく、従って刺身に出来る大きさの「ししっぽ」は味が過ぎてしまっている。
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この魚は焦げた香りと醤油との相性が抜群であり、焼いた身をほぐして醤油を付けて食べるのが一番美味しいが、更に骨を焼いて醤油を垂らし、そこに熱湯をかけて即席吸い物にすると良い、「生きていて良かった」そう言う味がする事を、私が請合おう。
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また季節は秋から冬に移るが、鰹(かつお)が出回ったら、これを表面焼きし、やはり身をほぐして、千切りにしたたっぷりの大根と一緒に味噌で煮ると、これも生きていた事を後悔させない風情を味わう事ができるだろう。
温かいご飯との相性は抜群で、大き目の茶碗にご飯を入れ、その上からこの味噌煮をかけ、猫ご飯風にすれば何杯でもご飯が進む事間違いない。
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輪島は港町だから新鮮な魚介類が多く楽しめる。
が、一方でこうして頻繁に美味しい魚が食べられると言う事は、喉に小骨が引っかかる機会も多くなる訳で、とりわけ貧しかった私の幼少期など、たまにしか食べられない魚を卑しく焦って食べ、毎度々々喉に骨を引っ掛けていたものだったが、この場合の一番最初の対処はご飯の丸呑みとなる。
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しかし、これで取れない場合はどうなるか・・・。
暫く様子を見る事になるが、もっと適切に言えば何もしないと言う事であり、その代わりに「おまじない」が存在していた。
三井町だけだったのか、或いはもっと全国的なおまじないだったのかは不明だが、万年青(おもと)の葉に針を刺しておけと言われたものだった。
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そして不思議な事だが、万年青はどの家にも植わっていて、或いはこのまじないの為にみんな植えていたのかも知れなかったが、こうしてその葉に針を刺しておけば、気が付いた頃には喉の骨が抜けていたものだった。
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本当は放っておいても抜けたのかも知れないが、万年青の葉は「力」の象徴であり、この力に拠って骨を打ち負かすか、または万年青の葉が身代わりになってくれるのかは解らないが、そう言う意味が有ったのだろう。
私などは魚を食べる度に万年青の葉に針を刺して、それでどこと無く喉に刺さった骨が人事のような感覚になった記憶が有る。
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だがこうして重要な役割がある万年青の葉は、なぜか庭の真ん中や玄関付近に植えられる事が少なく、幼かった私としては出来るだけ玄関近くに有れば良いものを、と思っていた。
それでいつだったか村の年寄りにその理由を聞いた事が有った。
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むかし玄関付近に万年青を植えていた家があり、その家の子供がお前のように喉に骨を引っ掛け万年青の葉に針を刺していた。
そこへ地主がたまたま立ち寄り、万年青の葉に針が刺さっていて事から、この家では少し前に魚を食べた事が知れてしまった。
魚を食べられるくらいに豊かなのなら、来年から小作料を上げなければと言う事になった。
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お前のようにいつも骨を引っ掛けている子供がいると、小作料はうなぎ上りになってしまう。
それで万年青は出来るだけ人目に付かない家の隅に植える事になった・・・。
良いか、魚は慌てず上手に食べるんだぞ・・・。
年寄りはそう言って私の頭を撫でたものだった。
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今となってはこの話の真偽は不明だが、どこかでとてもリアルな理由のようにも思えるし、作り話のようにも思える。
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気が付けば私の家の万年青も既になくなり、付近の家でも万年青を植えている家は少なくなった。
と言うより、もうこの付近で万年青の植わっている家はなくなってしまっていた。
最後に、魚の骨が取れたら万年青の葉の針は抜いておかねばならない。
これを放置すると「ふくべに遭う」事になる。(ふくべに付いてはこのブログ2016年11月27日の記事を参照のこと)
我が郷里には、今は知りませんが、自分の少年時代は、万年青は無かったか、とても貴重~珍しいものであったろうと思います。
かなり後になってから、植物好きの人が入手したとか分けて貰った、というような話しは有った様にも記憶しています。
よって、魚の小骨~と言う話は知らなかった、因みに、魚の小骨のことは郷里の言葉で「とぎ」と言う呼び方が一般的であり、バラや板のササクレ等の小突起は同じく「トゲ」、やせ細った子供を抱き上げる大人が、愛情と憐憫(?)の混じった感情でもって、「とぎ」が刺さる、とか冗談を言っていたように記憶しています。
東南アジア出張中に、タチウオ(日本のものより巨大)を食べて、間が悪く、喉の奥にとぎが刺さって、ご飯を飲み込んでも取れなくて、まじないも知らなかったので、同席の方に恥を忍んで(笑い)抜いて貰いました、とぎにしては巨大だった。
おもとが「万年青」という漢字を当てられているのを知ったのは、かなり後年です。
母島に万年青浜という所が有り、同じ民宿に泊まっていた2人組がボウリング調査をしていて、景色に似合わないエンジン音が響いており、近づいて見たら、その2人組がお仕事中。
その年配の方は、日本中で、掘っていない県は無いと、仰っておりました。未だ、話せば色々有るのですが・・
その浜に標柱が刺さっていて自分は「マンネンアオハマ」だと思っていました(笑い)
ハシビロコウ様、有り難うございます。
この漆籤では、どちらかと言うと滅んで行くものの記録が主体、そしてその中から次のステップを見出す機会を残せればと思っているのですが、今日本で生きている多くの人間は多分本当に滅んで行く時どうなるかを知っている者は無く、それゆえに大きなものが小さくなって行く時、滅んで行く時にどうなっていくかは大切な記録になるだろうと思います。
私はかねてより戦争で人は滅びないと思っていましたが、やはり人間の本当の滅びは今の日本のような状態に有り、糖尿病のように端末が腐って落ちて、やがて本体がどうにもならなくなる。小さな事を妥協して行った結果がこの日本のどうしようも無さに繋がって行ったように思います。
「かながしら」は当地では「ししっぽ」と言って庶民的な魚でしたが、昔はこうして骨まで湯に漬けて呑んだ訳です。そして私が子供の頃はこうした魚と米が物々交換と言うシステムが生きていました。物を得るときの基本は等価である事の厳しさが良く解るシステムでしたが、今の経済では自分がどこから何を買った事になるかが解らないようなシステムで、これではきっと物の有り難味は理解できんだろうと言う気がします。
カナガシラやホウボウ、各種フグなどは沖釣りの外道(失礼)で偶に釣れましたが、ここにご紹介のカナガシラの焼きほぐしと吸い物は、試したことが無く、残念でした。外房の鮮魚店で見ることもあるようですから、今度試したいと思います。
これらの魚で特にホウボウは、漁師によれば、夫婦愛が強く、一匹が掛かって、海底から水面に引き揚げられるとき、確かに偶にもう一匹が、これを追い掛けてくるときがあり、実際に、慣れている方は、最後はゆっくり引き揚げて、付いてきた片割れを掬い上げたのを見たこともあります。実際に夫婦かどうかは兎も角、それぞれの生き物にそれぞれの愛があり、人には人の愛があるのでしょう。
日本は長い間、文芸、物語、説話などが身近に在り、それぞれ、共通理解の1つとして、素養の中に有って、愛も運命も単純ではなく、何が幸いなのかは、難しいのだろうけれど、この数十年の間に、智恵が無くなってきて、幸いを自らドブへ捨てる人が多いのは勝手ですが、人の愛を自分基準で判断してドブに捨てる人も多くなってきているようです(笑い)。
万年青の葉のまじないも既に当地では滅んだのだろうと思いますが、過去こんなまじないが在り、そして万年青が玄関先や庭の目立つ所に植えられなかった理由が、そのまじないを間接的に含んだとても現実的な理由を持っていた事を記したいと思いました。
今となっては幼少の頃に聞いた年寄りの話の真偽は不明ですが、どこかでそこには地を這うような現実感、例えそれが作り話だったとしても、そう言う作り話が簡単に出てくる社会背景と言うものを考えた時、その話の真偽など然したる意味も持たないだろうと思います。それが成立するか否か微妙な社会は既にそれが成立しているに等しい。
子供たちは魚の骨を喉に引っ掛けながら、やがて魚を上手に食べられるようになり、しかしうかつにわずかばかりの豊かを油断すれば大人が小作料で困ってしまう事になる現実を学ぶ。人の何かを誇ったり、虚栄心や嬉しいときに油断すればどうなるかを、訓話ではなく現実の経験から学ぶ事が出来た訳です。道徳の授業などでは決して学べない「道徳」だったかも知れない、そんな事を思います。
コメント、有り難うございました。