「誰に対してもそうなのですか?」

仕事で大阪に行く途中、その電車内での出来事だった。
金沢駅から電車に乗った私の向かいに座っていたかなり高齢の男性は、半透明のレジ袋にワンカップ酒を3本と缶ビールを2本入れていて、電車が発車すると同時にそれらを次々出して呑み始めたが、やがて車内アナウンスで米原到着時間が放送されると、慌てて荷物をまとめて乗降口へと歩き始めた。

しかし、どうやら短い間に酒を呑みすぎたようで足元がおぼつかず、乗降口付近で座り込んでしまった。
やがて電車は米原へ到着、降りる人は電車を降り、乗り込む人が次から次へと乗り込んできたが、乗降口から少し離れたところで座り込んでいた男性をみんな「こんなところで酔っ払って・・」ぐらいにしか見ずに通り過ぎて行った。
さすがに捨て置く訳にも行かなくなった私は男性を起こし、米原で降りるのか確かめ、「そうだ、そうだ」と答える男性を担ぐようにして支えてホームまで連れて行き、ベンチに座らせて近くにいた駅員に事情を説明し、後を頼んでまた電車に戻った。

危ないところだったが、何とか発車までに間に合った私はしばらく眠ろうと思い、腕を組んで目を閉じたが、どれほど時間が経ったのかは分からない、もしかしたらとても短い時間だったかもしれないが後ろから肩を叩かれて目を覚ました。
何だろうと後ろを振り返った私の視界に入ったものは若い女性、いや女性と言うにはまだ幼いだろうか、女の子が私の肩を叩いていたのだった。

そして私は彼女から1枚の紙切れを手渡された。
「私は耳が悪くて言葉がしゃべれません。今の人はあなたの知り合いですか」紙切れにはそう書かれていた。
とっさのことで何がなにやら分からなくててびっくりしたが、私は自分のバッグからボールペンを取り出し、手渡された紙切れの余白に「違います」と書いて渡した。

するとしばらくして私の肩越しにまた紙切れが舞い込んできて、そこには「誰に対してもそんなに親切なのですか」と書かれていた。
一瞬「そうです」と書こうとしたものの、少し気恥ずかしくなった私は紙の余白に「君が見ているかも知れないと思って、そうした」と書いて返したが、それを読んだ彼女は一瞬「んっ」と言うような顔をしたが、すぐジョークだと分かったのだろう、何度もうなずき少し笑った。

それから一時彼女からは何のリアクションもなかったが、やがて電車が京都駅に着く頃、また彼女から紙切れが渡され、そこには「ありがとう、なんだか生きてて良かったと思えました」と書かれていた。

私はその紙切れを手元に置き、メモ帳を1枚破りそこに「こちらこそ、ありがとう」と書いて渡した。
彼女は京都駅でこちらに手を振って降りて行ったし、同行していた母親らしき女性も軽く会釈をしていった。
ちょっとかわいい子だったな、しまった住所くらい教えておけばよかったなと思ったが、散々格好つけてしまったし、後でボロが出るよりはこの方が彼女の夢を壊さずに済むのかなとも思った。

「誰に対してもそんなに親切なのですか」と言う問いはドキッとした。
まばたきもせずに見つめられると自分がとても恥ずかしかった。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. お誂え向きの舞台が準備されても、日頃稽古を怠っていれば、そこに登る役者には成れないし、自分を飾る脳内妄想が現実を圧していれば、やはり目の前の舞台・様子が見えないので、役は無い。
    実生活を地道に行っている者のみが、少しだけ勇気が出れば、そこに待つ者に手を差し伸べることが出来る~~♪

    その少女は、これから他の者より、試練は多いだろうし、少しは援助が欲しいときもあるだろうけれど、生涯この出来事をした人よりも、繰り返し思い出して、勇気を奮って彼女に与えられた人生を生きて行けると望んでいます。残念ながら、酔っぱらいは、覚めたら、それさえも思い出さないだろうけれど、貴重の場を図らずも作り出したと言うことで、多分、恩人の1人なのかも知れないと思う。

    その少女は、その目で、色んなものを見てきたのだろうけれど、他の人より鋭敏で、その他のことで惑わされることも少なく、見て、身の上を考えることも多かったであろうが、新しい大きな一歩を踏み出したのだろうと、思います。お母様も、いずれ、それが大きな変化の日で有った事を知ったでしょう。

    その少女と有ったように、心が通じ合う一瞬とは、突然遣ってくる事もあるだろう。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      親族には酒が好きな者がいて、私は幼い頃から酒飲みが嫌いでした。人に絡むし第一迷惑でどうしようもないと思っていましたが、若い頃からそう言いながらも放っておけないのが酒飲みで、もしかしたらこうした在り様が自身を救ってくれていたのかも知れません。その意味では自身に都合の良い事ばかりが良い結果となるわけでは無い事を痛感します。文字通り禍福はあざなう縄の如し、先に行ってどうなるかは解らないし、その因縁の細きも太きも関係が無い。全く恐ろしい事だと思わざるを得ません。この話はもう10年前に他の媒体で記事にしたものでしたが、その時点でも10年ほど前のことを回顧しているものです。彼女はもう40歳近くにはなっているでしょうね。きっと立派な大人になっているものと思います。そしてそうした人の若いときのほんの一瞬を自身が通り過ぎることが出来たのは、とても光栄な事だと思います。

  2. 暇そうにしているせいか、比較的道を尋ねられたり、電車で何やら聞かれたり、特に日本人以外に、と言う事が多い気がしますが、そう言う人とは二度会うことがないことが多いけれど、ものごとは、よく考えれば、全ては二度と起こらないのかも知れない。少なくとも、全ては取り返しが付かない。

    確か、最後にサウジアラを出国するとき、何か清々するものが有り、特には、長期の場合は、滞在届けが在り、それに対して出国届けをしなければ成らないのに、していなくて、出国手続きで少し手間取ったので、何か急に落ち込んで・・送ってきて貰っていた、パキスタン人に代行して貰っても良いと言う事でやっと出られそうに成って・・その前後に、出国カードを書けない人が居て、パスポートを覗き込んだら、タイ王国で、或る意味気の毒になって、手助けして、自分は、留められないように、出国の印を入手、待機場所に心せわしく移動。少し落ち着いてから、気になって暫く、さっきのタイ人を探していたら、暫くして、待機場所に居るのを確認して、胸のつえも降りた。長い旅だが、いつもよりは少し心が軽かったようにも思う。あのタイ人は、しっかり稼げたのかどうかは知らないが、国に帰れば、小さな子供や奥様が待っていたのだろう。手荷物は殆ど無かったが・・・

    1. 人が人を救うのは、困った時の事を知っているからであり、その意味では人を救いながら自分を救っているだろうと思います。それゆえ多くの苦難を知る事には価値が有り、これを望んで求めた者は実に成らない。望まぬところから、或いは運命のようなところからやってくるからこそ、その何かを得ることが出来、やがてそれを通して社会に還元され、その社会がまたどこかでいつか個人に還元して循環する。
      今の社会では倒れている人を助ければ、或いは逆に刺される事もあるかも知れない。しかしそのリスクを恐れていては社会が益々個人に還元するものを失う。私の中には明治生まれの祖母や、これまで知り合った多くの人が還元したものが残っていて、これが今も自分を救ってくれているだろうと思います。また避けられぬ苦しみや悲しみと言うものも、そこに築かるものは決して苦しみや悲しみだけではなかった。
      私もまた遥か昔、この女の子に救われたものと思うのです。

      コメント、有り難うございました。

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