「祈り」

確か中央アフリカのキャンプだったと思うが、我々が滞在していたキャンプから少し離れたところに粗末ながらも修道院が建てられていて、6,7人のシスター達がやはり飢えて病気にかかっている人や、もう死期が迫っている子供達の看護に当たっていた。

修道院の礼拝所は狭くとても質素なものだったが、彼女達は毎朝礼拝所に隣接した宿舎から太陽が昇るとともに一度外へ出て、礼拝所へ入っていく。
その礼拝所は階段がなく、入り口には砂が入らないように広めにコンクリートが流されているだけの空間があり、シスター達は必ずその場でひざまずき、手を組んで祈りを奉げてから中に入って行くのだった。
絶望と、悲しみすらそれが感情であることに感謝しなければならない、果てしない砂の荒野に朝日があたり始める頃、手を組んで微かに頭を下げるシスター達が逆光になって浮かび上がる姿はこの世で唯一つの希望であるかのように美しかった。

それから私はどんな小さい教会でも入る前に片膝を付いて手を組み、祈りを奉げるようになったが、神を信じている訳ではなかったし、今もそうだ。
そこにあるのは視覚的な美しさに対する憧れと、唯それを真似ているだけの自分しかいなかった。
しかし見る人はその姿に「信仰心」や「神」を見る。
私は大きな教会の前でも入っていく人の邪魔にならないよう脇によって祈りを奉げたが、その後に続く何人かは私の姿を見て同じように片膝を付いて手を組んで祈りを奉げ、教会へ入るようになる。
また子供のいる夫婦は私の姿を見て自分の子供にも同じことをするように諭し、小さな教会だと神父が出てきてミルクティーを出してくれたところもあった。

「ああ、全ては動きなんだ」と私は思うようになった。
よく海外で言葉が通じなくて、と言う話を聞くが、言葉は意味が無いもので、何をしているか、何をしようとしているかが大切なのだ。
その行為に真の心があろうと無かろうと、人がそこに何を見るかによって自分が決まり、自分がした行為は人の目に止まった瞬間から人のものなのだと気付いた。
また文化はある種の形式なのかも知れないと思うようにもなった。
故郷を遠く離れた国で、その国の文化や考え方を全て理解するのは不可能なことだが、これを救ってくれるのが形式なのだ。
宗教とか文化は形式の中に「心」が含まれていて、そこには言葉の必要はなく、行為が言葉を表すようになっている。
これはある意味通常生活でも同じ事が言え、言葉は行為の補足にしか過ぎない場合がある。

日本へ帰ってきて、私は手紙の最後に「○○を祈ります」と言う挨拶文を書かなくなった。
何故か、それはシスター達の祈りが言葉ではなく行為に見えたからだったが、もう1つ大切なことを付け加えよう「祈りは行為である」と言えばおそらく敬虔なキリスト教徒からは大変な反発を受けるだろう。
行為と言う言葉が指すものは始めから人目を意識したものが含まれ、こうした人目を気にしてその為に多くの人が通る場所で祈りを奉げる行為はもっともしてはいけない行為だからである。
キリスト教徒にとって祈りはどこまで行っても言葉であり、その言葉に神が存在する。
だから行為としての祈りをしてはならず、私の考えは間違っている。

が、美しいものを美しいと思い、それを真似することがいけないなら、私などきっと生まれてくることがそもそも間違いだったに違いない。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. アフリカ本土に足を踏み入れた事が無くて、今一実感が湧かないですが、中央アフリカを画像で見れば、難民キャンプの様子が沢山有りました。Wikiで見る限りは、頻々と内乱~クーデターが発生して、数百年前は、兎も角として、金が支配する現代社会では、自治能力~統治能力が有るとはとても思えない。犠牲となるのは弱い者で病者、貧困・子供であり、権力者になった者も、国家と(多)民族(国民)に命を捧げる覚悟なんかが有るとは思えない、300年後に独立することを考えて、『破産管財人』を選定して、一旦、植民地に戻ったら良いかも知れない~~♪
    少なくとも、○○式自動歩槍~AK-47~Mシリーズ自動小銃、その他の実験場の地位は、返上した方が良い、彼らは二重に搾取する事しか考えていない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      中東やアフリカの戦争、若しくは内戦を見ていると、文明社会や先進国が持つ概念に極めて大きな疑問が存在しているように思います。イデオロギーは確かに大切ですが、現実にそのような国家は有り得ず、また在ったらとても恐ろしい事になる。
      こうした地域の一番大きな原因は「貧困」であり、その意味では「輝ける道」も「イスラム国」も変わらない。ましてや同一民族でも地域、学歴、職業の差別は在り、格差、差別は初めからどの人間にも存在する。これが生物の本能であり、力でもある。それを一つの概念で縛って「平和」や幸福は永遠に訪れない。

  2. 今は里山で昆虫や爬虫類を虐待したり、その被害に遭ったりしたりの経験が全くないままに、知識だけが、先行して、「先ず、言葉ありき」になっているが、人の進化の道のりを推定・考察すれば、「先ず、動作在りき」に違いないのに、大きな間違いを起こしているように思える。中には発掘なんかは、単調~長期に渡る事が全く想像出来て居ないのに、恐竜の知識が、異常に豊富な少年もいる。
    東南アジアの上座部仏教では幼少時から親に連れられて、寺院に参拝して喜捨~講話を聞く事が習慣であるし、本邦では寺社に幼少時から参拝、祭に参加していた(!)。
    皇室~聖職者は言葉に言霊が宿っているので、無闇には発しなかったが、動作としての祈り~行事~祭を連綿と続けている。
    文明の衝突でもないけれど、一神教と土地の精霊から自然発生的に生まれた信仰とは、お互いに譲歩しなければ、益々混乱は深まるであろうと思われる。
    心より理屈、寛容より権力が支配的になるで有ろうから。

    1. 古代から混乱した政治状況のときは「独裁」と言うものが必要になる事は人間社会が経験として持っている。そして私たちは独裁と言えばすぐに隣国のお坊ちゃまやアミンを思い出すが、実は独裁と非民主主義は同一ではない。
      古代王国、中国の皇帝などでもその時代の独裁者が「天意」を畏れるなら民主主義は成立し、そうでない場合、例えば現在の中国のように共産党と言う団体が独裁を行えば、非民主的な独裁になる。
      そもそも共産主義は格差をなくし、人々が共同で幸福に暮らす道を考えた一つのイデオロギーであり、その意味では現在の中国は共産主義ではなく、帝国主義、拝金主義になっている。
      唯単にその名称を使ってイデオロギーを掲げれば目的は達すると思う事が間違いで、完全な民主主義だったら今度は「私刑」が横行し、その国家は恐怖政治に陥る。
      結果として混乱地域には国連軍が派兵されて一時期軍事政権に拠って統治され、そこから民主的な政治形態を構築するしかない事は、現在の国際情勢を見ても明白ですが、しかしこれも合衆国大統領の人間性にかかっているところが誤りだろうと思います。

  3. モスレムと食事をしたり一緒に居たりして、お祈りの時間に成ったことは、数多いが、そんな時は、黙って会釈して状況を受け入れるだけにするのが、最良と思われる。ユダヤ教のお祈りは、本式は不知だが、小刻みに身体を震わせ、と言うときには、厚意的無視が宜しかろうと思ってしてきた。
    勿論行為も表情も(つまりは内心も)敬虔なる人に(勿論実際の内心は知る必要もないが、行為をする人に)尊敬と寛容で接すれば、同程度の反対処遇は常に受けてきた。
    日本の伝統的~神道的信仰・礼儀~礼拝は、所作~服装~容姿、その場所、どれを取っても意味の解釈は兎も角、美しいので千数百年の永きに渡って、連綿と続いてきたのだろうと思う。
    遠い昔、成行で、最初に上座部の喜捨~礼拝に行ったとき、「仏陀」の国だったら、些細な違いは何も問題ないだろうからと、次第を教わりながら、動作をしたら、それはそれで、思わず心が澄んだようになったことは確かで、実は少し自分を恥じた~~♪

    1. 仏教やキリスト教は古代宗教が多くの分派を起こして現在に至っていますが、元々イスラムもキリスト教も同じものであり、仏教もその始まりは古代インド哲学体系から始まっているだろうと思います。
      結局のところ今の宗教は「宗教」ではなく「人」なのであり、人の信奉が行われてしまうから道を誤るのであり、また道を正す事もあるだろうと思います。
      前コメントと同じで、民主主義か共産主義と言う名前が大切なのではなく、曹洞宗なのか日蓮宗なのかと言う区別など然したることではなく、それを行っている「人」に全てがかかっている。
      心美しい者が在れば、それは戦争に拠って屍の山となったところでも光が差し、僅か3歳の幼子でも人を希望に導く・・・。
      この道50年の高僧と言っても、「畏れ」や「美しさ」を失えば、彼に拠って人は絶望を味わう・・・。

      コメント、有り難うございました。

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