「お願いしたい事があるのですが」

毎週日曜日の朝9時に電話することが決まっていた私は、その日もいつもの公衆電話で5000円分の100円硬貨をポケットに入れてダイヤルを回していた。
この頃はまだ携帯電話と言えば、信じられないかも知れないがアタッシュケース程の大きさがあり、価格は100万円という代物しかなく、とても一般庶民が手にできるものではなかった為現在よりはあちこちに公衆電話があり、東京へ出て間もない私は部屋に電話を引いていなかったことから、遠距離恋愛中の彼女へ電話するときはいつもこうして公衆電話を使っていた。

男も女も暫く付き合っていればいろんな悪知恵が働くようになるもので、長電話を注意されていた彼女のために、ホテルに勤務している彼女の両親が絶対出勤している日曜日の午前9時に電話するようになっていたのである。
遠距離恋愛中の2人の電話などたわいないもので、せいぜいが近況報告、そして好きだ愛しているで締めくくられるのだが、電話が情報源の全てと言う状況では僅かな言葉のニュアンス、接続詞の運用のまずさで疑心暗鬼に陥ることも多く、大抵前回電話したとき掘った墓穴を何とかカバーし、また新たな火種を作る作業を繰り返していたものだ。

いつも使っているこの公衆電話がなぜ都合が良かったかと言えば、この電話は狭い路地の中にあって長電話していても後ろからせかされることがなかったからだったが、その日は珍しいことにボックスの外で髪の長い、いかにもキャリアウーマン風の女が私の電話が終わるのを待っている様子だった。
この手の女は大体気が短いことに決まっていたから、暫く電話を続けていれば諦めて他へ行くだろうと思っていた私は気にせず電話を続けたが、女はなかなかいなくならなかった。
さすがにこれでは落ち着かなくなった私は、彼女に外で自分達の電話が終わるのを待っている人がいることを伝え、また後で電話すると言って受話器を戻した。
用意した100円硬貨はまだ半分以上残っていたが、これはこれで嬉しいような少し淋しいよな・・・。

「すみませんでした」私はその女に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。
だが以外なことに、「お願いしたいことがあるんですけど・・・」と引き止めたのはその女だった。
どうやら女は電話より私に用事があったようだが、勿論私はこの女とは始めて会ったし、会社の関係者とも思えなかった。
年齢は20代後半、もしかしたら30くらいか、グレーの薄手のロングコートはそれなりにセンスの良いものだったし、コートより僅かに濃いグレーの網タイツの足を覆う茶色のブーツも決して安いものではなかった。

「何かご用でしたか」立ち止まった私に女は「すみませんが、ここへ電話して貰えませんか」とメモ用紙に書かれた電話番号を差し出した。
その顔は何か困った様子ではあったが、「電話ならご自分でかけた方がいいのではないですか」と私は答えた。
「それが、私だと切られてしまうんです」
「それはどう言うことですか」
「ここへ電話すると女の人が出ます。そしたら部下だと言ってXXさんはいますかと言って呼び出して欲しいんです」
女は全てが伝えられない苦しさをごまかそうとして微笑んだが、その表情から私は全てが分った。
この女は不倫中だったのだ。
電話すれば既に夫との仲を疑われていることから必ず妻が電話に出て、女からの電話は酷い罵声と共に切られてしまうことになっていたのだろう。

「会社の名前と部所を聞かれたらどうします」
「○○のXXと答えて下さい」
「私の名前は何と名乗ればいいですか」
「それは何でもいいんです」
「失敗しても知りませんよ」
「はい」女はパーと花が咲いたような笑顔になったが、そのことからこの女、こうして人に電話を頼むのは初めてではないことが何となく分ってしまった。
呼び出し音が止まって電話に出たのは女だったが、その声の表情からかなり警戒し、不快になっている様子が伺えた。

「○○会社の○○と申しますが、XXさんをお願いしたいのですが、御在宅でしょうか」
「どう言った御用件ですか」丁重で明るく話した私に対して電話先の女の声は暗く重かった。
「わたくし、XXさんの部所で仕事をさせて頂いております。明日の会議に使う資料のことで少しお伺いしたいことがありましてお電話させて頂きました。お休みのところ恐縮です」
この程度の電話なら仕事でしょっちゅうしている私にとってどうと言うこともない作り話だったが、男からの電話、しかも会社関係の話題だったことから、電話先の女も安心した様子が伺え、「暫くお待ちください、今かわります」と言って奥へ歩いていく音が聞こえた。
暫くして「はいXXです」と言う男の声に電話は切り替わった。
「あなたとどうしても話したいと言う人から頼まれました。これで電話を代わっても大丈夫ですか」
私のこの言葉に依頼人が誰かをすぐ理解したこの男は「はい、ありがとうございます」と答えた。
私は両手を差し出して電話に出たがっている女に受話器を渡し、ボックスから出た。
ガラスの戸が閉まり、その中で女は何度も何度もおじぎしていたが、それに軽く頭を下げて私はこの場を立ち去った。

女が可哀想だった。
見ず知らずの男にこうして頼まなければ好きな男に電話することさえ適わない、それに電話先の女は男の妻なのだろうが、男と女の仲を既に知っているからこそ、こうした事態に陥っているのだ。
もしかしたら妻と離婚して女と結婚するとでも言っているのだろうか、どうして分らないのだろう、妻を恐れて電話さえ制限されている男にそんな覚悟などないことが・・・。
歳下の私相手に「ありがとうございます」と言わなければならない男のこの姿が「愛」か・・・。

次の週から私はこの電話ボックスを使わなくなった。
もしかしたら、と言うよりあの電話ボックスを使っていれば必ずあの女に出会うことになるだろう、そしてまた電話をかけてやればその内親しくなって女と付き合うこともできたかも知れない。
美人だしスタイルや趣味も良さそうで「いい女」だった。
だが私は哀しい女を見るのが辛かった、その弱みに付け込んで親しくなろうと言う姑息さも嫌だったが、それに第一この2人の恋愛を手助けする責任は私が負うべきものではなかった。

女とはこれ以来会うことはなかったが、それにしても私が本名を使って電話しても、それが女からの電話であることが薄々でも察知できる男と、面識すらない男に恋人への電話を依頼する女、2人の電話テクニックは相当なものであり、親の目をかすめて電話している私たちはまるでガキっぽかった。

切れそうな糸を辿ってでも関係を続けたい女、2人の女の情念に何か大切なことを判断できずにいる男、実に恋愛の醍醐味はこうした危うさにあるのかも知れず、こんな絶望的な関係であっても未来はどっちに転ぶか分らないのが人の世と言うものなのだろう。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 法律があろうが無かろうが、環境や生物界に法則が有ろうが無かろうが、人がどう言う風に解釈しようが仕舞いが、発生という初源を考えれば、生物はその環境の中にあって、変化~進化して来たのなら、自己保存が危うくなれば、回避しようとするのは当然で、攻撃を受ければ、中枢の「思考回路」に無ければ致し方ないが、実際に出来ようが出来まいが、反撃して自己保全を図るでしょう。

    その成れの果てである(笑い)人も、それが作った国家も、多分その延長線上にあって、似たような事をするのは或る意味当然である。

    日本国憲法は、交戦権を認めず~戦力を保持せず~外交の手段として戦争を認めず・・平和を愛する諸国民に、自国の平和を委ねた(笑い)、言葉としては勿論成立するが、現実には成立しない。朝鮮半島の面白い人が、日本大使館に侵入して暴れ回って演説を打って、侵入の意図は無かったから、無罪を主張する者がいたり、ナイフで赤の他人を刺し殺して、殺意は無かったと主張する者が続出して、それを真面目に弁護する弁護士が砂糖に集るアリンコの様にいて(ウ○コに集るハエが良いかも知れない~笑い)、誰も不思議に思わない、京大の校内に、汚い看板やら垂れ幕やら規制されたら、表現の自由が侵されると主張する教師が居たり、世の中は、お笑いの舞台と何ら変わらない事が頻発(笑い)

    日本国憲法は、その上に、2/3の国会議員の発議で、当時としては、蒼いバラ状態で、国際法とか何とか言うまでもなく、これからの脅威を事前に規制という意味で、敗戦国が原爆を落とした戦勝国に脅かされて押しつけられたが、実は国民投票をして、半分の賛成が無ければ成立しないのであるから、これ一点でも無効に出来るが(笑い)、国会議員も国民も変革は怖くて、現状の維持を望んでいる~~♪
    大地震は防げないけれど、対策は自分のお金が掛かるから、近所の神社に参拝して、暫し忘れる~~♪

    この女性も、乗り込んでいって、現状をぶち壊せば、可能性は大いに拡がるかも知れないが(最近は国会議員や役者はケロッとして遣っているかも知れない)、それっきりで望みを断たれるよりは、多分甲斐のない苦しい努力を続けている。何と愛しき人か~~♪
    いずれは、別れることになって、遠い将来、どうなるかは不明だが、「私を愛した人」は(私が愛した人ではない)心の中で発酵~熟成して、理想化されるかも知れない。そんな人生も悪いとも思えない。
    いい加減年が行ってくると、現実と空想の境目もぼやけてくるし、通帳や古い写真を見ると、多分、酷い方が、現実だったののだろうと強制的に思わされるので、見ないようにし、現実を知る機会を減らすために引き籠もりが一番かも~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      今考えてもこの経験は凄かったなと思います。こんな事が有って良いのかと言う気がしますが、当時は携帯電話も無い時代、どこかで純愛とか、女の情念の美しさも感じてしまいます。
      今の時代の携帯電話を考えてみると、文明や科学技術の発展は人間が悪い事をする、し易くしていく歴史でも有るかも知れませんね。携帯のおかげで不倫も随分し易くなった事でしょうし、オレ俺詐欺や麻薬の売買、売春の低年齢化にも貢献した事でしょう。そして今やスマホの時代で、やっている事はゲームとどうでも良い話、つまり怠惰を得る為にやっているようなものです。
      この話のような事を考えると、今の不倫はやはり覚悟とか美しさ、また努力が無いような気がしてしまいます。
      また痛切に感じる事は「言葉に対する責任」の軽さですが、安部総理はもとより、日銀の黒田総裁に至っては言葉を只操っているだけで、これでは上から下までリベートのような社会になるのは必然です。
      言葉はお遊びや勉強ではない、現実に生きている人間のその時々の命そのものであり、これを考えたら軽々に言葉は使えない。
      片方で酒の席で女の子にちょっとセクハラをしてしまい、後の一生を棒に振る芸能人がいて、国民から政治を負託された女が、妻から相手の男を寝取って開き直り、その後も平然と国会議員を続けている。いやいや中々の不公平振りではないですか・・・。

      今日は近くの氏神様の祭り、「郷社祭り」です。
      流石にこの日ばかりは仕事を休まないと畏れ多い。
      少しだけのんびり出来ればなと思います。

      コメント、有り難うございました。

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