「郷社祭り」(ごうしゃまつり)

石川県輪島市三井町本江(わじまし・みいまち・ほんごう)に所在する「大幡神杉伊豆牟比咩神社」(おおばたかんすぎ・いずむひめじんじゃ)の主要大祭が「郷社祭り」だが、同大祭は輪島市三井町仁行地区(わじまし・みいまち・にぎょう)と輪島市三井町本江地区の祭りながら、昭和60年前後までは能登一円から縁者が集まる大きな祭りだった。

本来は5月2日が大祭だったが、日本政府の連休法案の改定により、例年祝日となった5月3日に大祭が変更された。

同祭は基本的に宵祭り、本祭、後祭で構成され、昭和60年頃までは仁行地区、本江地区では三日三晩飲み明かし、誰が来訪しても各家では酒や肴が振舞われる盛大な祭りだった。

大幡神社には沢山の市が立ち、実はこうした市の主神である市神を祭っているのが本江地区であり、郷社祭りの本来で有る「神杉比咩(姫)命」を祀っているのが仁行地区である事から、この大祭の本来は仁行地区を発祥とするものと見做される。

郷社祭りの起源は「猿鬼退治」(さるおにたいじ)の逸話から始まる「儀式祭」であり、能登一円を荒らしまわっていた猿鬼を退治するために、出雲大社へ相談したところ、出雲から八百万の神々が参戦し、気多大社(けたたいしゃ)を総大将、大幡神杉比咩神社を副将として猿鬼退治が始まり、大幡神杉比咩が舞を踊って猿鬼をおびき寄せ、それを気多大社軍が討ち取った故事にちなむ、相談が祭りとなった珍しい祭りである。

この「猿鬼退治」の古事は比較的詳細が残っていて、それに拠ると猿鬼は単独ではなく、櫓(やぐら)舞台を組んで酒を飲んでいたとされる事から、集団である事が記されていて、能登一円で傍若無人をはたらき、女をさらい、その被害は甚大だった。

そこで村人は氏神様である大幡神杉伊豆牟比咩命(おおばたかんすぎ・いずむひめのみこと)に対処を請願し、神杉比咩命は石川県七尾市(いしかわけん・ななおし)の気多大社(けたたいしゃ)に相談を持ちかけ、ここから連名で出雲大社に討伐の請願が出される。

討伐の請願を受けた出雲からは気多大社を全軍指揮官、神杉神社を副将と決め、八百万の神々がこの討伐に参戦し、山の斜面の砦を築く猿鬼と対峙する。

つまりここから見える猿鬼とは、出雲の神々が結集しなければならない勢力だったと言う事であり、それは出雲勢力と拮抗するか、それに近い規模のものだと言う事である。

そして篭城して中々出て来ない猿鬼、そこで女の神である神杉神社が甲冑の上から十二単(じゅうにひとえ)を身に纏い、その下に剣をしのばせ舞を踊り、猿鬼をおびき出す作戦に出る。

元々女には目が無い猿鬼の事、やがて砦から姿を現し、神杉神社に近寄ったたところを神杉神社が一刺しするが、惜しくも僅かに外れる。

その後神々は一斉攻撃するが、それをかわした猿鬼は現在の能登町当目(のとちよう・とうめ)まで逃げて、ここで小神(ちいさがみ)である仁行のもう一つの神社「外神社」(そとじんじゃ)が手詰まりになった神杉神社に、吹き矢の筒に自分が入って猿鬼を突き刺す事を進言、吹き筒の中に入った外神社を神杉神社が吹いて、これが猿鬼の目を射抜く。

能登町当目の「当目」と言う地名はこの古事に由来し、その流れた猿鬼の血は黒くなって流れ、これがやはり能登町黒川(のとちょう・くろがわ)の由来となった。

深手を負った猿鬼はその後も能登を転々と逃げ回り、やがて現在の輪島市歌波(わじまし、うたなみ)の浜まで逃げ、そこで神杉比咩命の剣に心臓を一刺しされ絶命する。

一度決したら二度と容赦の無い神杉比咩、しかしそうなった事もまた宿命であり、猿鬼を哀れに思ったのだろう、また要らぬ祟りを封じる意味からも自身は甲冑を脱ぎ捨て尼となって、猿鬼を供養した。

これが「猿鬼退治」の逸話であり、この古事にちなんで付けられた地名は多く、神杉比咩神社の発祥は現在の輪島市三井町仁行松尾(わじまし・みいまち・にぎょう・まつお)の奥地とされているが、同じく三井町仁行保勘平(みいまち・にぎょう・ほうかんひら)の上、石神山の下に現存する小さな岩山とされる伝承も残っていて、この岩山には何が祀られているのかは不明だが、祠が存在する。

神杉神社は松尾から時代と共に平地に移行し、一時は三井町小泉(みいまち・こいずみ)まで山を下ったが、その後は現在の三井町本江に安定し現在に至っている。

これはその時々の地域の力関係に拠るものと考えられている。

郷社祭りに関して、先代神杉神社宮司だった白山比咩神社の宮司「山崎宗弘」氏(故人)は、この祭りは来る者を拒む祭りではないが、観光の祭りではない。

この地から出た者たちが一年に一度故郷に帰ってくる地元が主の祭りであり、出会いの少ない男女がここを縁とし出会って所帯を持ち、その子がまた・・・と言う具合に連綿と続くこの地の繁栄の祭りだ、と話していた事を思い出す。

その意味では討伐され得べき「猿鬼」を観光にして利を得ようとする能登の在り様には、若干、節操の無さを思うのは私だけか・・・。

ちなみに、この祭りでは各家々でも宴席がもようされたが、ここで踊られる「にわ踊り」はどう言った踊りなのかは解明されていない。

単に庭で踊ると言う意味ではない事は確かだが、一部記録によると臼をひっくり返し、その上で踊っている情景が伝承されている為、或いは「アメノウズメノミコト」、すなわち天の岩戸の神話に近いような気がするのだが、もう一つ、猿鬼伝説で出てくる「「外神社」、彼は小神(ちいさがみ)であり、天孫降臨時に案内役を努めた「猿田彦命」もまた小神とされている・・・。

さて、今日は雨だが、ささやかなれど酒と肴を用意して、郷社祭りをお祝い奉ろう・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 地域の伝統的な祭の起源は、昔の出来事や事件を元にしたものが多いでしょうから、その集落の誕生神話やら、昔の風土記に原形が有る物などが多いのでしょう。
    物忌みも有るし、集落全体が、意思疎通や出会いの機会を作るとか、理由を付けて積極的に休むとか。
    財産の分配とか、今は失われた~忘れられた、それなりの意味があると思います。
    江戸時代の百姓の生活の本やら、地域の郷土資料館を見て回ったりしたら、生活は、それなりに楽しそうな感じでした。今とは違うからと言って、別に遅れたいたわけじゃない。電気・電子・動力製品が無いだけで、それなりに呑気に暮らしていた。ただ、貧乏だったので、今より簡単に死んだけれど、当時はみなそうだったから、特段のことでもなかったのでしょう。

    休めるときは休むべし~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この祭りも昔と比べれば随分と淋しいものになって来たように思います。
      今の祭りは半ば「観光」と言う側面も持っていますが、その神社仏閣を維持しているのは氏子や門徒であり、これが衰退すると祭りも衰退する事になります。そして私としては観光業者が私の為に何かをしてくれる訳でもないのに、祭りを絶やさないで欲しいと言うのは随分身勝手な言い方のように思います。職業にはそれぞれ立場があり、協力するときは相互が普通ですが、今の地方行政は観光に偏重し、地域住民は負担が増える一方です。これでは祭りは更に住民の負担になって行く事になります。
      少しぼやきになりましたか・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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