「雨の匂い」

おそらくイメージと言う事になるのだろうが、雨には甘い匂いが付きまとう。

それも砂糖のような極端な甘さではない薄い匂い、実際にそれが甘いかどうかではなく、感じると言う表現が正しいのかも知れない。

丁度プライマーや溶剤が実際には甘くないにも関わらず嗅覚的に甘く感じる、あの感覚に近いが溶剤ほど強い甘さではなく、ほのかな甘さ、気付くかどうかすら微妙な甘さと言うべきか・・・。

乾いたアスファルトに雨が降り出す時、空からポツリ、ポツリと落ちてくる水滴が地面に跡を残せる状態の時、或いはその少し前にはこうしたほのかな甘い匂いがしてくる。

そしてこの匂いは粉末系の匂い、乾いた匂いなのだが、雨が強くなると今度は液体系の匂いと変わってくる。

匂いは香りだけを感じるのではなく、時にはこうして状態を感じることもできるのだが、雨の降り始めは森永のビスケット「マリー」が遠くに置いてあるような、そんな甘い匂いがして、雨が本降りになると今度は躑躅(つつじ)の蜜のような匂いになって行く。

おかしなものだが、私に取って雨の匂いとは森永の「マリー」と言うビスケットの匂いなのであり、同時にここから思い出されるのは「仏壇」なのである。

昔、法事や真宗大谷派の行事になると、家の仏壇に「おかざり」と言って菓子などが供えられたが、その際「けそく」(蓮の花をデフォルメしたお供え用の高台盛器)には「ごまパン」と言って、小麦粉に砂糖を入れ、ゴマを振ったものを焼いた丸い菓子が使われたが、これは基本的には丸餅に順ずるお供え用の形式だった。

だがこの「ごまパン」は当時存在していた三井駅前のお菓子屋さんで売っている時と、売り切れている時が有り、そうした時に代用品として使われたのが、丸い形の直径が近い森永のビスケット、「マリー」だったのである。

街中では既に多くの菓子が出回っていたが、私の住んでいる三井町では甘い菓子はまだまだ憧れだった。

「ごまパン」も悪くは無かったが、硬くて子供には食べにくい、それに比較して森永のマリーはとても上品で、私の憧れだった。

そして仏壇にお供えしてあるこのビスケットは、雨が降ってくるとしけって柔らかくなり、暑い季節だと早くにカビが生えてくる事から、雨が降ってくると早めにお供えから下げられ、子供たちに振舞われた。

仏壇に何がお供してあるかは既に確認済みの子供たち、雨が降ってくると優雅なビスケットにありつける訳で、雨の気配を感じると家へと帰りを急いだものだった。

今でも時々このビスケットを買う時がある。

一枚パリッとかじると、遠い昔家路を急いだ自分の姿と、仏壇から懐紙ごとビスケットを下げる祖母や、祖父、母と、光り輝いているようなこの村の景色が、ほのかな甘さの中に広がって行くのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 昔、何か行事があると、食べ物が少し良かったし、お菓子や饅頭・果物が食べられて、嬉しかった。
    偶に贅沢(笑い)するから待ち遠しかった。のべつ手元にあるのは幸せの濃度を下げているかも知れない。

    熱帯や砂漠で、雨が降りそうになると、風も、空の色も急変して、確かに何かの匂いがしてくる。
    自分に危険が及ばない所にいて、寝ながら、そんな景色を見るのは気分が良い。
    何かの本で、地球が水で覆われる時、500~1000年ぐらい、豪雨が続いたらしいですが、どんな匂いがしたんでしょうかね。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      お供えものと言うのは、子供とって見ればいつか自分のものになる、おやつでしたが、これだけものが氾濫する社会となると、ビスケットくらい子供も見向きもしないかも知れませんね。それに私に取っての雨の匂いはマリーですが、人に拠ってこれは違っているだろうとも思います。唯、確実に何かの匂いはするはずで、若い頃、東京で「雨の匂いがする」と言って、10分後くらいに雨が降ってきた時には、周囲からブッシュマンでは無いかと言う目で見られたものでした。
      人間には本来色んな感覚が備わっているのですが、それも使わずにいると衰退する。そしていつか大きな危機すら察知する事が出来ないようになって行くのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

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