「越中富山の薬売り」

少しだけ登りになった道には暑さで逃げ水が立ち、蝉の声はこの時ぞとばかりに喧しくあたり一面に響き渡る。
そのもうおそらく老人と呼ぶべき年齢だろう男性は長年使い込んだ黒い時代遅れの自転車を押し、ときおり歩みを止めては首に下げた日本手拭いで顔の汗をぬぐった。
自転車の荷台には深い茶色の風呂敷に包まれたいくつもの大きな荷物がゴムのロープで結わえられていたが、半袖の白いシャツから伸びた腕は細くともしっかり日焼けし、決してその大きな荷物に負けている訳ではなかった。

この村を通る道はこれ1本ではなかったが、他の道は山道であり、歩くにはそれでよくても自転車を押して通れる道はここしかない。
男性は自転車のスタンドを起して止め、左側の民家が流している余り水をガラスのコップですくい、飲み干した。
田舎の家では水道が整備されていても飲料水は先祖代々使ってきた湧き水や山水を使っていることが多く、こうした水は常に流したままになっていて、家族以外の通行人も水が飲めるようホースや竹筒で家の外まで引かれ、コップぐらいは置いてあるのが普通だった。
水と言うのは不思議なもので、出し惜しみやケチなことをすると涸れるものだと言い伝えられていた。
男性はコップをホースから流れ出る水で洗い、元の場所に戻すとガシャンと言う音と共に自転車のスタンドを外しまた歩き始めた。

この村に来るようになって50年経ったが、顔なじみの人達も随分いなくなり、皆子供や孫に代替わりし、ときおり若い頃から付き合いのある人がいても高齢で話すのがやっとと言う感じだった。
親の後を継いで始めてこの村に来たとき、同じように嫁いで間もなかった若奥さんでも既に亡くなってしまった人もいる。
空家が多くなり、おそらく村人の3分の2以上は自分と同じ高齢者で、一人暮らしと言う家も少なくない。
男性は道路が大きく左に曲がる少し手前にある地蔵祠の近くでまた自転車を止め、今度は土手に腰を降ろした。

ここに生えている栗の木も若い頃はまだ小さく、とても木陰を作るまでには至っていなかったが、今はこうして大きな木陰を作っていて微かに吹いてくる風が涼しい。
近くにある地蔵祠(ほこら)の周りもうっそうとした木々に祠すら見えないほどになっていたが、これには理由があることを教えてくれた村の長老、「あの地蔵さまはな、恥ずかしい地蔵さまで人には余り見せられん、それで周囲の木は切ってはならんことになっとるんだ」
意味ありげなその口調にわくわくして地蔵を確かめに行ったが、どうと言うことは無い普通の地蔵さまだった。
なんで恥ずかしい地蔵さまなのかとうとう聞けないまま長老はかなり以前に旅立ってしまった。

景色は何も変わっていない、しかし人がいない。
農作業で真っ黒になった若夫婦、梅を干すお婆ちゃん、田んぼを見ながらケショロ(長いキセル)で煙草をくゆらす爺さま、暑さの申し子のような子供達、以前には蝉の声に負けないほどの人の声があり、動いている景色があった。
おそらくもうこの景色も見ることはないだろう、いや見れないに違いない。
越中富山の薬売り、男性はこの夏で引退を決意していた。

富山県は日本屈指の製薬メーカー集積県でその歴史も長いが、特筆すべきはその薬の販売形態にある。
長さ30センチ、幅20センチ、高さ18センチほどの木の箱に家庭用常備薬、傷バン、風邪薬、下痢止、シップ薬などを詰めてそれを日本全国の一般家庭に置かせてもらい、使った分だけ半年や3ヶ月ごとに清算するそのやり方は近くに薬店が無い田舎や地方では随分と重宝な仕組みだった。
田舎ではこうした富山の売薬が何人も出入りし、それぞれの売薬によって名前や色が違う薬箱が平均でも1家庭4個くらいは積まれていたものだった。
また薬を売る側のメリットとしても、田舎では人の流出流入が少ない、つまり安定して販売や集金ができた。

都会にこのシステムが少なかったのは、薬箱一杯の薬を初期投資する訳だからアパート、マンション暮らしのような隣人の姿が頻繁に入れ替わるような生活形態ではまずかったからだ。
さらには現代社会のような豊かな情報伝達手段が無い時代、遠いところへ嫁にやった娘や遠隔地に住む親戚縁者の様子を知ることはとても難しいことだったが、こうした顧客へ自分が取引している地域であればその情報を集め教えることもあった。
頻繁に医者にかかれない貧しい地域では富山の薬売りが置いていく薬で大方の病をしのぎ、また縁者の消息を知る手段としても重宝だったのである。
子供達にとっても富山の薬売りが来れば必ず紙風船やゴム風船が貰えたことから、毎年彼等がやって来る時期をとても楽しみにしていて、こちらも大歓迎だった。

しかし時代と共に田舎は疲弊し、人口がどんどん減っていき薬の消費も落ち込んできた。
そして自動車社会に伴い地方鉄道も縮小、廃止が増え古い形態の売薬は交通手段を失ってしまい、安定した仕事を求める彼らの子息は売薬業の後継者となることを嫌ってサラリーマンや公務員を目指すようになる。
こうして売薬業にも整理統合が始まっていったが、もともと全国に薬の箱を置いているため、その顧客台帳はそれさえ持っていれば明日からでも現金収入になることから台帳は業者間売買が可能で、その取引価格は800万円から1千万ほどの値段になっていたのだが、こちらも少しずつ値下がりが始まっていた。
男性の家とて例外ではなかった。
薬を担いで電車に乗り、出張先の家で置かせてもらっている自転車で得意先を回るには既に歳を取り過ぎていたし、子供も後を継ぐことはなかった、と言うより自分がそう望んだのかも知れなかった。
台帳は車を持っている業者に売ってしまったし、今日はこの地域の人達に最後の挨拶に来たのだった。

思うに自然や景色と言うものは、何か人の暮らしとかけ離れたところの大きなもののように考えるかも知れないが、その多くは人によって、人の暮らしによって成り立っているようでもある。
男性はこの土手から見える景色が一番好きだった、だがそれはこの村があり、そこに住む人がいればこそ、そして彼等が好きだったからに他ならない。
だが始まりのあるものには終わりがあることを本当に分るのはこうした年齢にならなければ難しいことなのだろう。

かんかん照り付ける太陽は、村全体に続く稲穂の緑をそろそろ薄めようとしている。
おそらく後1月もすれば稲刈りが始まるだろう。
男性は自転車を押して一軒一軒最後の集金をし、通り道にある大きな杉の木に囲まれた神社でお参りをした。
何を祈ったかは分らない、だがその日以降この薬売りの姿を見た者はいない。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 子供の頃、郷里の茅屋にも、数個の置き薬が有りました。お腹を壊した時とか、勝手に開けて飲んで、夜親に報告ぐらいの物でした。

    1つの商習慣・流通の機構が滅びて行くと、それに伴って、目にはハッキリ見えなかった、情報とか、思い遣りとかもそれと共に、失われて、取り返しが付かないことが沢山起きるのでしょう。
    ドラッグストアは全くお互いに話はしなくても、用事は足りるけれど、家族のことも、その前に何処の人かも知らないので、お互いに通じ合う事は少ない。
    売りに来てくれる人も居無くなった今、その内、或る程度の、人口が無い地域には、店も一軒もなくなり、イノシシ・エテコウは暴れ回る。
    富山の薬売りは、人口が1/4だった、江戸時代も居たんだ、ということを、皆さんは心に隅にも無いような感じ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      現在、私の家へ来る薬屋さんは1人だけになりました。それももう83歳で、足を引きずるようにしてですから、もう数年後には誰も来なくなるかも知れません。
      凄い仕組みの仕事だなと感心しますが、コミュニケーションが危険となる現代では、やはり難しい側面もあるのでしょうね。値段だけのものを売っているのではない、もっと大きなものを売っていたのですが、今の時代はこうした感覚が無いから無機質な事になってしまいます。
      そして私の住んでいる村に関して言えば、確実に江戸時代より人口は減ってきているだろうと思います。もしかしたら江戸時代から減り続けて今日に至っている可能性すらあるかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。