「聖徳太子の和」

田舎のおじいちゃんの家へ行くと、玄関に長くかけられたままになっている色紙があり、そこにはたいてい「和」とかの字が書かれてはいなかっただろうか。
日本人は「和」と言う言葉が好きである。
今日はこの「和」を始めて憲法に記したとされる男、聖徳太子を通して日本人が最も好きな言葉「和」とは何かを検証してみよう。

587年、今から1400年以上前だが、それまで絶対的な権力があった大伴氏が失脚、それに伴って大臣(おおおみ)の蘇我氏と大連(おおむらじ)の物部氏が急激に勢力を拡大してきた。
蘇我氏は大陸、朝鮮の帰化人達とつながりがあり、交易や国家の財政を握る新興勢力で、皇室と姻戚関係を結び権力を拡大していったが、物部氏は伝統的、保守的な軍事担当勢力で、急激に拡大していった蘇我氏とはことごとく対立していく。

おりから当時の用明天皇が、流行の兆しがあった仏教をこの国に受け入れて良いものか、会議に諮ったところ、仏教受け入れに賛成の蘇我氏は仏教反対の物部氏と中臣氏を策略で破り、両氏を宮中から追放してしまう。
これに怒った物部守屋(もののべ・もりや)は軍隊をととのえ、一発触発となるが、その年、用明天皇が崩御(亡くなった)、これにより両者の争いは天皇の後継者争いへと発展していく、世に言う「崇仏戦争」である。

物部守屋は起死回生の一打として欽明天皇の皇子、穴穂部皇子を天皇に擁立しようとするが、これに対して蘇我氏は敏達天皇の皇后(後の推古天皇)と用明天皇の皇子、聖徳太子と提携、穴穂部皇子を殺害、物部氏も滅ぼした。
蘇我馬子はこれで絶対的な権力を手にし、敏達天皇の皇后を推古天皇とし、聖徳太子を皇太子、実務担当「摂政」(せっしょう)としたのである。

だが、この時代朝鮮半島にそれまであった日本領、任那(みなま)日本府が滅び、これを奪回すべく新羅と幾度となく激突し、大陸中国では隋が南北朝の統一を終え、高句麗に圧力を加えていた。
また国内では、蘇我馬子の勢力は皇室をしのぐものにまで拡大、こうした情勢にあって聖徳太子は蘇我氏の顔色を伺いながらも天皇中心の中央集権国家の実現を目指していったのである。

どうだろうか、これほど「和」に遠い男が604年に制定したのが十七条の憲法であり、その第一文があの有名な「和をもって貴(とおと)しと為し、さからう事無きを宗となせ・・・」なのである。
権力闘争の中で、皇子を殺し、旧臣を滅ぼし、血で血を洗う骨肉の争いに巻き込まれ、朝鮮の任那日本府奪回に何度となく軍を派遣、新羅と泥沼の戦争を続けて行ったのである。
皆がよく知っているあの旧一万円札の聖徳太子とは別人のあり様ではないか。

だが私はこの男が好きである。
なぜならこうした男でなければ「和」など理解しようもないからだ。
血の海の中、それも肉親や幼きおりから世話になっている旧臣達のしかばね、その中で聖徳太子は何を思っただろう。
おそらく唇をかみ締め、天を睨んだにちがいない。
いつか争いの無い時代を・・・と願ったに違いない。
しかし、朝鮮半島情勢は一進一退を続け、最後は自身の弟である来目皇子を将軍にして新羅討伐軍25000人まで用意するが、この皇子の病死で討伐は延期されるのである。
その心中に争いの無い世の中に対する願い、祈りにも似たものが渦巻いたことだろう。

「和」は単に仲良くすることではない、反対しないことを「和」とは言わないのだ。
意見が合わなくてもその意見を尊重し、意見だけで相手の人格まで否定しないことだ。
だから反対しても「和」はあり、賛成していても「和」ではないことがある。
日本人の「和」は得して迎合に近いものがあり、その場は仲良くしていても帰ったら途端に悪口という例が多く、これは「和」ではなくむしろ敵対になる。

天台宗の開祖、最澄と密教の開祖空海のこんな逸話がある。
2人は互いにライバルで、お互いそんなに相手のことを良く思っていなかったが、ある日最澄が、空海に一つの経典を貸して欲しいとやってきた。
しかしいつも借りて行って帰さない最澄に空海は経典を貸すことを拒んだ。
最澄は仕方なく帰るのだが、空海は弟子達に「あの人の背中に合掌しなさい」と言うのである。
本は貸せなかった、しかし年下の自分に、しかも本当は良く思っていない相手でも知りたいと思うその気持ちから膝を屈してでもそれを求める、その気持ちは尊い・・・。
さすが、空海だと思わないだろうか。
これが「和」と言うものだ。

聖徳太子は謎が多い「万葉集」、「日本霊異記」を外せばその存在はあったのか無かったのかも分らなくなるし、十七条の憲法も「改新記事」の中には出て来ないことから後世付け加えられたのではとも言われる。
だが、聖徳太子がいなかったと言う決定的な根拠もまた無い。

この男その後も「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや・・・」とやるのだが、こちらも「日本書紀」と「隋書」の記述には違いがあるが、いずれにしても、国書でアジアの超大国「隋」の皇帝を激怒させる、何とも大好きな男なのである。

「和」は難しいことではない。ただ相手の意見を尊重することだ。
カエサルも似たようなことを言っている。
「自分の意見を聞いて欲しければ、まず相手の意見を聞け」

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 当今の歴史学者の主流は進歩的左翼主義者の様であるが、何の事は無い東京裁判史観から70年経った今も全く抜けきれない。
    その理由は置いといて、自虐史観であり、いわば「集合写真に聖徳太子が写っていないから」(笑い)「存在の確認に疑義」が有るとして、教科書から名前を抹消しようとしたが、さすがに失敗したけれど、奴隷の安穏を欲していて、自分の地位の安泰を担保したいだけのように見える。
    それでも、支那の王朝が、易姓革命で前王朝の歴史を新王朝の都合に合わせて創作するのに比べれば、有り難迷惑だけれど、可愛いものかも知れない。こんなものが長く続くとは到底思えない。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      聖徳太子は一時存在が否定されましたが、こうした歴史上の人物、特に水戸光圀まで編纂される事が無かった日本の正史に鑑みるなら、聖徳太子以前の登場人物は全て怪しい事になりかねない。そしてそれが本当に存在したか、しなかったかと言う事は、中国の三国志を見ても解るように、現代の段階で議論する事は虚しい。その人物なりを正確に知ることは出来ず、為に存在していても事実は伝わっていない人物は山ほど有り、その反対も山ほど有る。歴史は今現在の人がどう思うかと言う事なのだろうと思います。

  2. ごく近所に、真言宗の地元では古刹が有りまして、推定400年ぐらいのケヤキとムクも有りますが、例の如く、大師像もありまして、花祭り、紅白のウメ、紅白のハギ、枝垂れ桜の季節などには、境内に入って観賞~参拝をしております。多分、大師は、歴史上希に見る傑物だったのでしょう。
    最近、第3日曜日の5~6時にNH○でマンダラと生きると言う口座がありまして、起きれば(笑い)見ていますが、テキストも買いました。ラジオだったら、後でネット経由で好きな時間に聞けて良いのですが、「こころの進化をさぐる」はテキスト読んで、通しでも聞いて、楽しみました。便利になりまして感謝していますが、ちょっと間違えば、直ぐ抜けていって、頭に留まらなくなりました。

    和は常に戦と表裏でしょうが、手ぶらで和平交渉が出来ると思っている方が国家の枢要に就いていて、不思議とも思っていないようだし、専守防衛とか文民統制とか、内容や定義を曖昧にしたまま、分かったつもりで議論して無駄な時間を費やしただけなのに、満足している場合が多いみたいです。
    チンギス・ハーンだと思いますが、西方の国を侵略~占領して、平和を重んじる貴国の神は、この戦で、貴国を助けたかね?と聞いたらしいです。
    イスラエルのアリエル・シャロンは軍団の司令官で独断専行が多くて、時には参謀総長も処置無しだったみたいですが、元々勇猛だし軍団を良く訓練していたし、きっと戦況で最高の戦術が湧き上がってきていたのでしょう。実際、敵を撃破して、自国を勝利に結びつけました。イスラエルの首相で初めてパレスチナ独立を計画明言して、新しい時代を拓くかに見えましたが、病に倒れて、結局は帰らぬ人となり、残念でした、晩年は凄いデブだったので、何処か悪かったのかも知れません。
    和も大切だし、利も勿論大切で、それはいざというときに、戦に身を投じ、利無くとも、命を掛ける覚悟があるから、意味が有るのだと思えますが、原点は最近は置き去り~~♪

    1. また「和」と「利」は非常に近い概念であり、漢字的にはほぼ同じである事が伝えられていますが、その昔「利」と言う文字は「和」と同じだった可能性すらあり得るようで、利がもたらすものが和であり、和がもたらすものが利と言う事なのかも知れません。ただし、こうした概念は恐らく周の時代以前には無かったかも知れない。
      和が利となるのは「人」が国富と概念されて初めて成立する為、例えば殷や夏王朝、若しくはそれ以前の社会では略奪で国富が成立する為、人が国富とならず、「和睦」と「敗戦」は同義だっただろうと思います。

      この辺は春秋戦国時代にチラチラとその影響の残りが出てくるので、古い和の概念は現在の和とは異なる事がうかがい知れるかと思います。同様に欧米の「和」も「戦争が無い状態」を指し、この意味では洋の東西を問わず、「和」は状態で有り、目標とか精神的な事柄を指していない。そう言う状態だと言う風景や形を現していて、必ずしもこれが目指してどうこうなるものではなかったと言えるかも知れません。
      そしてこうした事を知って聖徳太子の和に対する条文を見てみると、和の尊さが見えてくるかも知れません。

  3. 太子の、日の出ずる処の天子~~、日本史上でもまれな大名言、後、好きなのは、ルンガ沖夜戦で概ね二倍の勢力に対して、田中少将の「揚陸止め!戦闘、全軍突撃せよ」。又、伊藤博文が、暗殺されて、事切れる前に、銃撃犯が朝鮮人と知って、「馬鹿な奴だ」。
    高杉晋作の「三千世界のカラスを殺し~~」色々ありますね。
    7世紀以前から、日本は半島に領土を持っていて、そこに日本独特の型式である前方後円墳がかなり残っているが、10年ほど前らしいが、韓国の発掘調査隊が、運悪く前方後円墳を掘り当てて、ブルドーザーで破壊して何事もなかったことにして埋め戻したらしい。栄光に満ちた歴史を教えるのは勝手だけれど、自虐の逆、という分かりづらさ。
    最近は、お笑いが沢山出る番組では、特に生では人の話は全然聞いていないで、自分が言いたいことをタイミングを見計らって、言えば良い、激しい生存競争に晒されているようだが、我が選良の国会では次々に、証人喚問~参考人招致を遣って置いて、勿論思った証言・答弁は皆無であるが、全く聞いていないらしく、怪しい政党の皆様は「これで益々、疑惑は深まった~~♪」と言うのが大流行~~♪
    本当に人の話を聞かないにも程が有る、と言うより聞く気が初めから無い~実は自分たちの主張が選挙民に受け入れられなくなっていることに気付き始めたが、何をしたら良いか分からず、取りあえず、人の足を引っぱって時間稼ぎをしているが、それはそれで、外野が喜んでくれて、その内放されるのだが、取りあえずステージの上で演技を続けている、北のカリアゲも似ているかも~~♪

    1. 今国際社会は2人のとっちゃん坊やと、独裁を独裁と知らずに帝国を作ろうとしている2人の性格破綻者に拠ってかき回されていますが、丁度「周」が滅んで行った過程によく似ています。
      夏、殷「商」では暴力と犠牲が価値であった可能性が有り、この反目から秩序、近親封建制が求められ、そこで周は神の概念を大きくして秩序を作った。しかしこうした綺麗な概念はやがてまた暴力と粗暴に拠って崩れて行き、やがて暴力を背景にして秩序を作っていく道が生まれてきた。この事は欧米でも全く同じ道を辿って行きました。
      権力は分散すると力を失い、やがて細かい者たちの節操の無い争いになって行く。
      今の国際社会はその入り口に立っているような気がします。

      コメント、有り難うございました。

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